みなさま、こんにちは。

4月も下旬に差し掛かり、暖かい日が続きます。
もうすぐゴールデンウイークですね。


さて、今日は2006年公開の韓国映画『グエムル-漢江の怪物』とセウォル号沈没事件との類似点について書いてみたいと思います。

先日4月16日、セウォル号沈没という痛ましい事件から一周忌を迎えました。
事件の大まかな経過などは日本でも報道がかなりされましたので、ほとんどの方がご存知だと思います。

実はセウォル号沈没事件が起きた直後から、ポン・ジュノ監督作品の『グエムル』がまるでセウォル号事件を予見しているかのようだという声が出ていました。

私もセウォル号一周忌を機に、『グエムル』をもう一度見直してみたのですが、2006年当時とはまったく違う感想と衝撃を受けました。
ポン・ジュノ監督は8年後に起きるこの事件を予見していたのでしょうか。

今日はそうした観点から映画を振り返ってみようと思います。





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日本でのタイトルは『グエムル』となっていて、原題は“괴물(クェムル/怪物)”。
2006年7月27日に韓国で公開され、観客動員数1000万人超えとなるなど、非常に話題になった映画でした。

米軍が水道管から不法投棄した毒薬により漢江に突然変異した怪物が現れ、人々に危害を加えるという設定から、当時この映画は反米メッセージをこめたSFパニック映画として人々に鑑賞されていました。
CGで作られる「怪物」のビジュアル的な完成度がイマイチだと不満を述べる人や、怪物が出てくると聞いただけで見向きもしなかった人もかなりいました。映画を評価をする人の多くも、在韓米軍の暴挙を真正面から捉えた反骨精神を高く評価していたきらいがありましたが、今思えばいずれの鑑賞態度も、映画公開当時韓国社会が平和そうな雰囲気に包まれていたからこそだったのでしょう。


冒頭。
在韓米軍のとある実験室で、米軍の医師が劇物のホルムアルデヒドを規則に則った処理過程を経ずにそのまま下水に流すよう韓国人医師に命じるところから、映画は始まります。

猛毒を川に流すのは規定違反であると韓国人医師は止めるものの、「漢江は広い」の一言でその異議を却下する米軍医師。



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悪いことだと分かっていながらそれを命じる者。
悪いことだと分かっていながら、それに従うもの。
こうしてまかれた、おびただしい毒。

規定を犯すことにより生じうる命への危険など一顧だにせず、利己的に処理するその姿に、過積載が常態化していたセウォル号の姿がのっけから重なります。

ちなみに韓国では、実際に在韓米軍が施設周辺に大量の劇物などを流し、重大な環境汚染を引き起こしています。在韓米軍は2002年に下校途中の二人の女子中学生を装甲車で轢死させたりもしているので、在韓米軍の非道さに憤っていた人たちがこの映画を反米映画として読み解いたのも、至極当然の解釈ではあります。


映画では米軍が不法投棄した毒物により突然変異を起こした川の生物が「怪物」となり、漢江のほとりで憩う人々を飲み込んでいくのですが、物語りの中心となるのが、ソン・ガンホ扮するパク・カンドゥ一家です。




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カンドゥは父フィボン(ピョン・フィボン扮)、娘ヒョンソ(コ・アソン扮)とともに、漢江の川辺で小さな売店を営みながら細々と暮らしているのですが、突然川からやってきた不気味な怪物に襲われることに。




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電車の中から怪物に襲われる人々を見る人々。


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売店の奥でアーチェリー選手である叔母ナムジュの試合の中継を祖父と見ていたヒョンソ。
外に出たところ人々が逃げ惑う状況に直面し、父に手を引かれてわけも分からず逃げるのですが、父とともに転倒してしまい、ひとり逃げ遅れたところを怪物に捕まってしまいます。



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ヒョンソを飲み込み、川の中に去っていく怪物。

こうして一瞬にして子どもを奪われたカンドゥは、「遺族」となり、合同葬議場で悲しみに暮れます。



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アーチェリーの大会から戻ったカンドゥの妹のナムジュ(ペ・ドゥナ扮)も駆けつけ、遺影と悲しみの対面。
以前は学生運動の闘士で、いまは酒ばかり飲んでいるカンドゥの弟ナミル(パク・ヘイル扮)も戻り、一家は突然失った家族への悲しみを受け止めきれずにいるのですが、そこへ容赦なく降り注ぐカメラのフラッシュ。

こうした場面も、セウォル号沈没事件を取材するマスメディアの姿勢に酷似しています。
大切な家族を目の前で失ったばかりの人々に、無遠慮にカメラを向け、今の心境を聞く配慮のなさを、あの時も人々は目撃しました。

ようとして知れない事故の詳細。
テレビはオウム返しに同じことを繰り返すばかり。
一刻を争うのに、なんだかんだと理由をつけて始まらない救助。
この異常事態に憤るセウォル号犠牲者遺族と行方不明者家族は、取材を拒みメディアを締め出したのでした。


次に続くこの場面にも、驚きを覚えます。



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合同葬儀場にやってきて、怪物に接触した人間はウイルスに感染している可能性があるので直ちに隔離するという政府関係者。事件の詳細がどうなっているかを先に話すべきではないかと抗議するナミルに、「そういう説明はニュースで」と、彼はテレビをつけるのです。

事故を把握する能力のない政府がテレビで情報を得ろと言う。
セウォル号の乗客を全員救助したと誤った発表を行った、現政府の姿を彷彿させます。
政府が独自に裏も取らず報道機関の内容を鵜呑みにして公式発表を行うだなんて、国家として体をなしていません。

『グエムル』ではコメディにしか思えなかったことが、実際にセウォル号を通じて起きてしまいました。起き得るからこそポン・ジュノ監督は描いていたのでしょうが、映画公開当時はこのディテールに込められた意味に気を払う人は殆どいませんでした。


こうしてカンドゥ一家は病院に送られ、検査を受けることに。
怪物の血を浴びたカンドゥは、取り分けても感染の疑いを濃厚にかけられていました。

たまたま漢江のほとりにいて怪物に立ち向かい死んだ米軍兵士を英雄と祭り上げる一方、兵士からウイルスが検出されたと報じるテレビを受け、人々の被害者家族への視線は完全に「厄介者」を見るそれと化します。



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しかしこの夜、決定的な事件が起きます。

カンドゥの携帯電話に、娘ヒョンソから電話がかかってくるのです。
自分は生きている、ここから出られないのだと、消え入りそうな声で。



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今このシーンを見ると、胸が締め付けられます。
セウォル号沈没後、船の中にいる子どもたちから電話やメールを受け取った親たちが実際にいたのです。
でもその声は、まともに取り合ってもらえませんでした。

誰かのいたずら。なにかの間違い。遅れて配信されただけのもの。

どういうわけか、家族の声は打ち消され続けました。
まるでそれを予見したかのような、映画のシーンです。

娘は下水溝のどこかで生きている、自分は電話をもらったのだとするカンドゥの言葉に、一向に耳を傾けない警察。位置を割り出して欲しいと懇願するも、精神的なショックで死んだ人の声が聞こえたのだろうと、はなから取り合いません。



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川べりに住む貧しく取るに足らない一家の訴えなどには、耳を貸さなくていいと物語っているこのシーン。このようなシーンが映画の中だけの話ならどれだけよかったでしょう。
実際、まだ中で子どもたちが生きているとどれほど訴えても、セウォル号の乗客救助は不可解なほど進まなかったのです。
救助が進まなかった理由はいくつか既に明らかになっていますが、それとは別に、もしこの船に乗っていたのがカンナムの子どもたちが通う学校の生徒であればこうはなっていなかっただろうという怒りの嘆息を、事件後どれほど聞いたか分かりません。
こういう感覚を人々が一般的に持っていること自体が、非常にやるせないです。


カンドゥ一家は「ヒョンソが最後に食事してどれくらい経つの?」のナムジュの一声で、病院の脱走を決意します。

やっとのことで病院から脱出した一家が目にしたのは、「逃走中の容疑者」とテレビで報道されている、自分たちの姿。被害者は一瞬にしてウイルスを撒き散らす危険な加害者に摩り替えられたのです。



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被害者の声を頑として聞かない「お上」を前に、自力で救出に行くしかない、闘う他ないカンドゥ一家の姿。ここも1年の間真相究明を求めて全身全霊で闘ってきたセウォル号遺族の姿に重なります。
とある遺族は私生活や過去を暴かれ、あまつさえ「不純な思想の持ち主」とありもしないレッテルを貼られ、個人攻撃を加えられました。映画を上回る現実の野卑さに、暗澹たる気持ちになります。


カンドゥの父は裏稼業の者に連絡を取り、怪物と戦うための武器などを有り金をはたいて入手します。防疫業者を装って立ち入り規制のかかっている漢江区域に入ろうとするのですが、この非常時を利用して稼ごうとばかりに、立ち入らせて仕事をさせてあげる見返りとして金を要求する役所の課長。



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ここでも重なるセウォル号。
セウォル号沈没事件で浮き彫りになった官民の癒着。

「アンディン」という海洋会社に捜索を全的に任せるために、事故直後、全国から集まっていたダイバーたちを使わなかった海洋警察。海洋警察とアンディンとの癒着ゆえでした。
アンディンを海洋警察に斡旋した韓国海洋救助協会の副総裁はアンディンの代表理事を務めており、一方、海洋警察庁次長は警備安全局長を務めていた2013年4月までに韓国海洋救助協会の設立を主導してきた人物でした。
海難事故発生時は韓国海洋救助協会所属の救難業者のみに事故情報を提供するよう制度設計されたのですが、そこに加入していたのはセウォル号事故当時まではアンディン一社だったという事実。
この次長は事故当日、セウォル号運行会社にアンディンと救難契約を結ぶよう圧力を加えたことも分かっています。


映画の中で、パク・カンドゥ一家は当てもなくヒョンソを探し回ります。




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しばしの休憩を取るために、売店に戻りカップ麺をすする一同。
そこには、いつもと同じように振舞うヒョンソの幻が登場します。


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映画公開当時は、映画館で笑いが漏れたというこのシーン。
ポン・ジュノ監督はこんなに悲しい場面の何がおかしいのだろうかと残念がったそうですが、可笑しくてというよりも、突拍子もなく挟まれたヒョンソに不意を突かれてしまったというところなのだろうと思います。

でも、セウォル号の惨事を経験した今、このシーンを見て笑う人はいないでしょう。
幻のヒョンソに次々にご飯を食べさせるカンドゥ、ナムジュ、ナミル、フィボン。
生還を待つ家族の切なる思いを如実に表したシーン。

怪物が潜んでいるというのに、大々的な掃討作戦を展開するでもない政府。
自力で被害者救済に立たなければならない家族。
テレビでは愚にもつかないことばかりが報じられています。
こうした映画の描写にも、既視感を覚えます。


カンドゥ一家は孤軍奮闘する中で父を失い、カンドゥも再び捕らえられ、米軍の病院に閉じ込められてしまいます。ありとあらゆる無駄な検査を受ける中、実際には死んだ米軍兵士からウイルスなど検出されていないという事実を米軍医師の“no virus”の一言から聞き取って知ってしまうカンドゥ。


父の助けを信じ、もうひとりの生き残りセジュとともに恐怖と戦っているヒョンソ。

ヒョンソを救うべく、カンドゥは再び脱走します。



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外に出てみると、米軍基地内の人々はバーベキューを楽しんでいて。
こうした場面も、「本当にそうなんだろうな」と思えてきます。


ナミルは信じていた学生運動の先輩に裏切られながらもヒョンソの居場所を割り出すのに成功し、兄に代わってヒョンソを探しに行くナムジュでしたが、ナムジュも怪物に倒されてしまい。

ナムジュからの連絡を受け、最後は父カンドゥが娘のいる下水溝にたどり着くのですが、戦いの末、怪物の口から引き出したヒョンソは、幼い少年を抱いたまま動かなくなっていました。


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自分より幼くて弱い、身寄りのない子どもセジュを最後まで守ったヒョンソ。

さっきまで生きていたヒョンソなのに、家族の元に戻るのは間に合いませんでした。
ヒョンソを失ったカンドゥきょうだいは、力を合わせて怪物に止めを刺し・・・・・・。




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映画はヒョンソが全力で守った孤児のセジュをカンドゥが引き取って育てている場面で終わります。



ポン・ジュノ監督は、セウォル号の惨事を予見していたのでしょうか?

あえて答えるのなら、セウォル号に限らない普遍を描いていた、というべきなのでしょう。

自分だけが甘い汁を吸おうとする者たちの影で、市民が多大な犠牲を支払わされる事件が今までもありましたが、責任者が徹底的に追及されぬままうやむやに終わり、弱いものが踏みつけにされて終わるのが常だった韓国社会。
そうした問題をポン・ジュノ監督は描き続けていたのでしょうが、観客はどこか自分に都合のいいところのみを切り取って映画を鑑賞してきたように思えます。
描いていることは複合的で、単純な白黒論理では片付けられないのに、一部だけを抜き出して判断したつもりになってしまう。それによって抜け落ちるメッセージがいくつもあるのに。
今回はセウォル号事件というフィルターを通して『グエムル』を見てみましたが、観終えてみると実はポン・ジュノ監督は同じメッセージを繰り返し送っていたのですね。

権力者が子どもを犠牲にする構図。
メディアが権力者の意のままに人々を洗脳する構図。
弱いものは徹底的に踏みつけにされる構図。
正義の側に立つ味方に思えていた人間に裏切られる構図。
最後に生き残る子どもたちに希望を託す構図。

これらは『スノーピアサー』にも共通するものです。
ポン・ジュノ監督のカラーというべきものですね。
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先日のセウォル号一周忌を向かえるにあたり、多くの人々が追悼集会に足を運んだのですが、警察は車両で道路を封鎖するなど物々しい警備の構えを見せ、結局は青瓦台に向けて真相解明を訴えるデモ行進をしようとした市民を解散させるべく、催涙液を混ぜた水を放水。今回被害者遺族をも連行していきました。
常軌を逸した対応という他ありません。

孤軍奮闘しなければならない被害者遺族に心無い言葉を浴びせる人たちがこうした国家の横暴を支えていることを思えば、利己主義が蔓延するこの社会の構成員の意識が変わらないことにはこうした事件を無くすことは出来ないのだと、改めて映画に警鐘を鳴らされた思いです。


最後に、私がこの映画で最もドキリとさせられた台詞を紹介します。
ふがいない兄をなじるナミルとナムジュをなだめ、身を潜めている売店の中で父が言った言葉。



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“니들 그 냄새를 맡아본 적 있어? 새끼 잃은 부모 속 냄새를 맡아본 적 있냐 이 말이여. 부모 속이 한번 썩어 문드러지면 그 냄새가 십리 밖까지 진동하는 거여. 니들 강두한테 최대한으로 잘해줘야 헌다. 자꾸 뭐라뭐라 그러면 안되아.”

「お前たち、あの臭いを嗅いだことがあるか? 子どもを失った親の胸のうちを嗅いだことがあるのかと言ってるんだ。親の腹の中がひとたび腐って朽ち果てた日には、その臭いは十里先にまでも立ち込めるんだよ。お前たちはカンドゥに出来る限り優しくしてやらにゃならん。なんやかやと文句を言っては駄目だぞ」


改めて胸に刺さる、悲しい台詞です。