$theTitle=wp_title(" - ", false); if($theTitle != "") { ?>
30 2016年3月
みなさま、こんにちは。
ついこの間3月になったと思ったら、もう4月が目前。
あっという間に時が過ぎていきます。
あたたかい春の日を、みなさまもお楽しみください。
さて、今日はとうとうこれをアップします。
先週放送が終わった『六龍が飛ぶ』最終回第50話。
49話ラスト。
キル・ソンミに狙われたバンウォンの元に駆けつけたムヒュル。
ムヒュルはバンウォンとプニを逃がし、キル・ソンミと対峙します。
剣を交え、以前とはまるで違っているムヒュルに驚くキル・ソンミ。
一方バンジはチョク・サグァンと対峙していました。
互いに相手が変わったと感じている二人。
チョク・サグァンはもう斬られても動揺せず、バンジも傷ついた体をまるで気にする様子がありません。
かたやムヒュルはキル・ソンミとの闘いで急所を突かれるも、おばあちゃんのお守りに守られ。
不意をつかれたキル・ソンミは首を切られてしまいます。
キル・ソンミはムヒュルに破れ、首を切られて瀕死の状況。ムヒュルは止めを刺さずにその場を後にするのですが、ヨニャンがキル・ソンミを発見。息も絶え絶えの姿に狼狽するヨニャンを、後ろからはユク・サンが狙っていて。
ユク・サンはヨニャンがイ・バンジが息子であることを知っていて隠していたことを知り、ヨニャンが密かに自分への怒りを募らせていたと分かったため殺そうとしたのですが、最後の力を振り絞ってキル・ソンミがユク・サンに切りかかったため、ヨニャンは難を逃れます。
ムヒュルはチョク・サグァンとの決闘に加勢し、2対1で戦い。
「なぜヨンギュ兄を殺した?」と憤るムヒュルに、「なぜ班村に武器庫を作ったのですか?」と問い返すチョク・サグァン。バンジが代わりに「政変を起こして三峯先生を殺すために作ったんだろう」と答えます。
「そう。それがあなたたちの大義。ポウンを殺し、王様を殺して建てた国で、互いに殺しあうだけでは飽き足らず、子どもまで殺した」
チョク・サグァンの言葉に、武器庫で子どもが犠牲になったことを初めて知るムヒュル。
「それで、誰を殺すつもりだ?」と尋ねるバンジニ、チョク・サグァンは「5人の罪人。あの方を無理矢理王位につけた無名。王様と王氏を全て殺したイ・ソンゲ。チョン・ドジョン。班村の武器庫の持ち主イ・バンウォン!」
三つ巴で刀を交える3人でしたが、結局チョク・サグァンはムヒュルを助けようとしたバンジにより致命傷を負います。
「強い剣術を持ってしても、結局誰も守れなかった、罪人・・・・・・」
5人目の罪人を口にするチョク・サグァンの振り絞るような独り言に、「あなたが最後の罪人だったのですね」と頷くバンジ。
バンジの脳裏にはヨニにかつて言われた言葉が甦っていました。
『あんたのせいじゃない。あんたが悪いんじゃない。世の中がおかしいのよ』
その言葉をそのままチョク・サグァンにかけてあげるタンセ。
「あなたのせいじゃない。世の中がおかしいんだ」
「‘世の中がおかしい’・・・・・・。気持ちが楽になるわね。ありがとうございます、殺してくれて」
こうして息絶えるチョク・サグァン。
かつてチョク・サグァンを助けた時は「ありがとうございます。助けてくれて」と置手紙をもらっただけに、ムヒュルの心中は複雑です。
二人きりになり、「俺を助けてくれたんだな。今度は、俺たちの番か?」と尋ねるムヒュルに、「もっと強くなって、俺を殺しにきてくれ。頼むよ、ムヒュル」と去っていくタンセです。
その後現れた母ヨニャンに一緒に南京まで行こうと誘われるタンセ。
そのあとは好きにいいからと言う母にタンセは口ごもりますが、その時プニも現れ、自分もそうして欲しいと言います。
どのみちタンセはここで生きていくことは出来ないので、生き残ったからには新たな人生を送って欲しい。自分は遠い島に行く。面倒見て守ってあげなければならない人たちがいるからとプニ。
「面倒見て、守ってあげなければいけない人か・・・・・・。それはよかった」
プニの言葉を繰り返し、涙を見せるタンセ。
廃人になりますよね。
つらすぎませんか。
全ての重みがタンセ一人の身にずっしりと。
強い剣術を持ってしても誰も救えなかったチョク・サグァンの悲しみすらも背負い、守ってあげることが生きる意味にもなっていたヨニを失い、もう一人の生きる意味だったプニとは呆気なく生き別れ。
自分にはもう守ってあげられる人がいないタンセが、面倒を見て守ってあげる対象のいるプニに「よかった」と言うのも、言葉とは裏腹に悲しすぎて。
もう色々あんまりじゃないかな、っていう気がします。
そしてプニはどうしてそんなに切り替えが早いのっていう。あの抱きしめは、完全に「よしよし」とタンセを「慰め」てるんじゃないの? 「別れを惜しんでる」のではなくて。
とまたプニに当たりかかる視聴者ですが、もしやあれは精一杯惜しんでたんでしょうか?
プニからのメッセージが分かりずらくて最終回も戸惑います。(笑)
このあと、チョンニョン和尚はハリュンの秘密を知っていることを本人に明かします。ハリュンはもと「無名/ムミョン」の下っ端組織員で、上司と部下を殺して逃げたことがあったのです。
身分を隠して生きても誰にも分からないというチョンニョン和尚。ハリュンが「無名/ムミョン」の残党を始末するのを手伝う代わりに、もう一つの名前を白達元(ペク・ダルウォン)を名乗り、これからは褓負商(ほふしょう。行商人)として生きることをハリュンに認めさせます。
もっとも、チョンニョン和尚はヨニャンから「必ず生き残り、後日また集まろう」と命じられたのを遂行しているまでなのですが。
ちなみに白達元は実在の人物。朝鮮初期の商人で、褓負商団の始祖とされ、朝鮮建国前、女真族との戦いで怪我を負ったイ・ソンゲを助けた対価として商業活動において優遇されたとされています。
この白達元は『根の深い木』のほうにも出てくるのでしょうか?
私は見ていないので分からないのですが、とにかく最終回は『根の深い木』に繋がるシーンのオンパレードのようです。(笑)
ムヒュルは結局、プニからの手紙を渡しつつ、バンウォンに刀を返して去ります。
「誰も笑っていないという言葉、肝に銘じるよ」と神妙に送り出すバンウォン。
一人になり、プニからの手紙を開いてみるバンウォン。
『大君が私にオッコルムを下さった時に交わした約束、土地と百姓の夢。それだけは忘れないで下さい。そうすれば‘虫’にはならないでしょう。そうして下されば、プニはどこかで笑っていられます。お元気で』
「オッコルム(チョゴリのリボン状の紐)なんていつあげたっけ?」
と記憶が既に定かでない視聴者ですが、物語はどんどん進み。
バンウォンが王になるまでを急いで描かなくてはならないので、まずは第2次王子の乱。
60人の私兵でバンウォンを排除しようとしたすぐ上の兄バンガ。
捕らえられ、バンウォンに命乞いをします。
兄に恩情をかけ命を奪わなかったバンウォン。
そんなバンウォンを褒めつつ、「もう休みたい」と譲位した兄バングァ。
これによりバンウォンがとうとう3代目の王・太宗に即位。
即位後は、妻の兄弟を次々と粛清するバンウォン。
表向きには、義兄弟たちが王世子を守るためのほかの王子を殺そうと主張したためでしたが、王妃となったミン・ダギョンは、そんな理由ではなく自分が何もかも独り占めするためだろうと激しくバンウォンをなじり。
そんな妻にも「分かっているなら王妃も気をつけなさい」と脅してますので。
結婚生活、完全に破綻してます。(笑)
その後、息子イ・ドの様子を見に行くと、たくさんの書物を読んで楽しんでいるところでした。そんなに勉強して王世子になりたいのか、政治がやりたいのかと詰問するバンウォン。
バンウォンは息子に政治とはなんぞやと尋ねます。
「孔子が仰るには・・・・・・」と答えようとする息子に、自分の考えを話せと促すバンウォン。
イ・ドは「分けることです」と答えます。
その答えに驚くバンウォン。イ・ドは言葉を続けます。
「国の多くの財をどのように分けるのか、誰に収めさせ、誰に与えるのかを決めることです」
チョン・ドジョンを髣髴させる息子に狼狽するバンウォン。
「それはお前の考えか? それとも何かで読んだのか?」と尋ね、イ・ドの答えも待たずにここにある本を全て捨てろと命じます。
ところがイ・ドは本を読ませて欲しいと即座に懇願。王世子の前途を邪魔したりはしないと。
王世子が6年かかった書物をふた月で読破すること自体が王世子の行く手を阻む行為だと怒るバンウォンですが、「でも父上。だからといって何もしないで生きていくことは出来ないではないですか。生きていれば、何かしらしなければならないではないですか」とイ・ドは懸命に訴え。
バンウォンは、今度はその言葉にプニを思い出してしまいます。
バンウォンはムヒュルに会いに行くと、息子イ・ドの護衛武士として戻ってきて欲しいと頼みます。
「おかしなやつなんだ。私に似ず、懐かしい人たちに似ている」と息子をムヒュルに引き合わせるバンウォン。
ムヒュルはバンウォンの気持ちを察し、プニのいるムヘン島に連れて行きます。
ムヒュルは島の行首として相変わらず人々を束ねているプニに会い、浜でバンウォンが待っていることを伝えますが、プニは会いに行きませんでした。
プニは、バンウォンに会えばそのあとまたつらくなるので、遠くからその姿を見つめるだけにしたのでした。
そこへ、ひと目でバンウォンの息子と分かるイ・ドがやってきたため、「一度抱きしめさせて欲しい」とイ・ドを抱きしめ涙するプニ。
プニの涙に驚くイ・ドに、幼い頃を思い出したのだとプニ。
「王様は、おかわりないですよね?」と尋ねるプニに「相変わらず、孤独でいらっしゃる」とイ・ドは答えます。
時がたち。
イ・ドが王となった世界。
プニは初めて島から出ます。
そこでは世宗王が作ったという文字が、子どもたちに盛んに普及されており。
遅くても10日、早い人だと半日で覚えられるほど簡単だという宮女たち。
文字はたったの28個だと聞き、プニは驚きます。
かつてチョン・ドジョンと最後に交わした言葉を思い出すプニ。
百姓との疎通はまだ解決できていないと、あの時チョン・ドジョンは話したのでした。
字がわかる百姓はいるものの、全員が理解できるようになるのは到底不可能だと語っていたチョン・ドジョン。プニは「考え続ければきっと解決できます」と答えたのですが、それをバンウォンの息子イ・ドが成し遂げたのかと感激するプニ。
墓標一つないチョン・ドジョンの墓に参り、来るのが遅くなったと詫びながら、バンウォンの息子が何かをやり遂げたようだと心で報告するプニ。
プニはハングル文字が書かれた紙を手に、チョン・ドジョンの墓で眠るように息絶えます。
そして再びあの日の浜辺。
イ・ドに別れの挨拶をし分かれたプニに、バンウォンが「あんまりじゃないか?」と声をかけ、二人はしばし共に過ごします。
あれほど夢見た王となり、どう過ごしているかと尋ねられ「毎日胸が踊り、毎日恐ろしくて、毎日が孤独だ」と答えるバンウォン。
同じく尋ねられたプニは「毎日忙しくて、毎日孤独です」と答え。
プニの答えに「よかった。お前も孤独で」とバンウォン。
プニは「それでもみんなで一緒に開墾し、一緒に分け合って食べているので」と答えます。「自ら計民授田を行ったのだな」と感心するバンウォンに、「計民授田というには、まだまだ収穫物が足りません。倭寇も心配ですし」とプニ。
会話の途中、バンウォンは今もプニが自分の贈った髪飾りをしているのを目に留めます。
「これしかなくて・・・・・・」と言いわけのように言うプニを見つめ、「会いたかったよ、プニ隊長」と思いを吐露するバンウォンです。
ん~。なるほど。
初めてこのシーンを見たときは「プニがまだバンウォンを想っているとか、ありえなくない?」と思ったのですが、改めてみてみると「この二人は昔から思い合っているけど、添い遂げられない定めだったんだな」と納得できてしまいました。これってバンウォンの表情が上手すぎるせいでしょうか?!(笑)
兄タンセとも生き別れ。
兄の恋人であり自分をとっても大事にしてくれたヨニも死に追いやり。
希望だった三峯先生も殺し。
全部バンウォンの仕業なんですけどね。
それでもまだバンウォンを想ってるというのが、通常ならば納得しがたいのですが。
バンウォンを遠くから見つめ、息子を代わりに抱きしめ、バンウォンと別れたあとは「多分死ぬまで愛してる」と言われたことを回想して涙したりしてるのを見ると、相当気持ちが深いということなので、プニはやっぱりバンウォンには昔から思いを寄せているんですね。バンウォンの善良な面や葛藤、心の変遷を一番近くで見てきて、なおかつ、他はさておいてもことプニだけはバンウォンは常に大切な人として接してきているので、悪感情を抱けないのも当然かもしれません。
年をとったプニが相変わらず独り身らしいのは、バンウォンへの思いだけでなく、タンセとヨニへの罪悪感もあるのでしょう。
って、気づけば最終的にプニの感情に納得してしまっているんですが。(笑)
そして、プニと再会を果たしたバンウォンに尋ねるムヒュル。
「なぜあの時プニさんを行かせてあげたのですか? 私が行くのも許してくださいました。そうしないこともできたではないですか?」
バンウォン答えて曰く。「そうしないわけにはいかなかった」
そして心でこう続けるのです。
「それは、私自身へのささやかな慰めだった。私が今の私ではなかったことを示す、ある時代の痕跡。ただそういうものを残したかったのだ。お前たちは、本当に難儀な人たちだった。あえて私に反対したり、向かってきたりはせずとも、私に心を全て預けてくれもせず、私の手中に収まりもしなかった。風がそうであるように。百姓がそうであるように・・・・・・」
島を出る前、このあたりの倭寇が本拠地にしている場所が対馬だと聞き、対馬を討つ計画を立てるよう指示するバンウォン。
プニのためかと尋ねるムヒュルに「私にそんなロマンがまだ残っていると思うか?」と答えるバンウォン。あとは頼むといわんばかりに息子イ・ドの肩に手を添えるバンウォンで、ラスト。
最後の最後に、かつてみんなで夢を語り合った時のシーンが出てきたのは、複雑な思いに駆られました。
あのシーンが出てきた時から、のちの悲しみを際立たせるためのものとは分かっていましたが。
さて、そんなわけで終わってしまいました『六龍が飛ぶ』。
イ・バンウォンが最終的な主役であるだけに、途中からは感情移入が難しくなりましたが、最後のムヒュルを前にしてのバンウォンの独白は、色んな納得いかない思いに落としどころをつけてくれる内容だったように思います。
力で権力をもぎ取った、天下に怖いものなどない筈のイ・バンウォン。
そのバンウォンが語る言葉。
『お前たちは、本当に難儀な人たちだった。あえて私に反対したり、向かってきたりはせずとも、私に心を全て預けてくれもせず、私の手中に収まりもしなかった。風がそうであるように。百姓がそうであるように・・・・・・。』
バンウォンの外見をし、チョン・ドジョンとプニの要素を併せ持つ、ある意味完成形のイ・ド。
ただ、のちに世宗王となるイ・ドの中にチョン・ドジョンを見出すのはいいとしても、プニをも同格に扱うのは大変な違和感を引き起こしかねない荒業だったと思うのですが、このプニを「バンウォンの恋慕する女性」としてみるか、「民百姓の代表」としてみるかで、実は印象やメッセージがまったく変わってきます。
私は後者として捉えました。
血塗られた権力者イ・バンウォンをしても、民は手強いばかりの存在であり、理想とする君主像の中に偉大なチョン・ドジョンと偉大な民の存在が掛け合わされているというメッセージ。プニをプニそのものではなく民百姓の象徴として置き換えると、伝えようとするメッセージはより明確になり、より納得のいくものとなります。
バンウォンが最後わざわざ「会いたかったよ、プニ隊長」と「隊長」をつけて呼びかけたのも、プニを単なる女性ではなく民の象徴、民のリーダーとして一般化し、意味を浮き上がらせるためでしょう。
権力者が民に恋慕すれば、通常なら強いほうが弱いほうを飲み込む構図になるわけですが、その構図になることを最後まで双方拒否したことには、フィクションとはいえ好感も覚えます。
ドラマの終盤、権力者バンウォンの孤独がクローズアップされることにはやはり気持ちがついていかず、このドラマが最初から最後まで民衆・民の視点を主軸に描かれていればより良かったのにという思いが残ったのは、残念でした。
そうした残念な思いを最後まで抱えつつも、主演のユ・アインさんは本当に見事の一言で。50話の間、はっきりと「成長している」感があり、ユ・アインさんには何度も舌を巻き、感嘆させられました。
バンウォンには色々文句がありますが、ユ・アインさんにはまったく文句なしです。(笑)
ピョン・ヨハン見たさで見始めたのが、気づけばユ・アインの再発見となりました。
全50話という恐ろしい長さでしたが、ご覧になられたみなさま、お疲れさまでした。
とにかく内容が濃くて、疲れるドラマでした。いえ、決して悪い意味ではなく。(笑)
最後の最後、タンセがどうしているかを少しだけでも描いて欲しかったので、そこも正直残念ですが、そのうち『根の深い木』を見て、「なるほどー」と新鮮に唸りつつ、新たな発見ができればとも思います。
なにやら3部作の計画もあるそうで、次はキム・ジョンソと首陽大君の「ケユジョンナン」になるかもしれないとのことですが、今はひとまずフル回転しすぎた頭を休めることとします。(笑)
« 前の記事:『六龍が飛ぶ』 第49話 を読む
次の記事:♪『六龍が飛ぶ』OST ピョン・ヨハン “青山別曲” を読む »
13 Responses for "『六龍が飛ぶ』 第50話 最終回"
白香夏さま、こんにちは。
チョゴリの紐をバンウォンがプニに渡す場面ありましたよ、中盤くらいに!
自分のを外して、「これ持って訪ねて来いよ」みたいな事をプニに言う場面だったはずです。
……って、どうでも良い話から失礼しました。
50話もの長丁場、視聴もレビューも本当にお疲れさまでした。
視聴だけでもグッタリだったので、レビューもなんて……気が遠くなりそうです。
私は当初、最後の2話、特に49話終盤から最終話に、すごく腹を立ててました。
プニとムヒュルの言動にも、繰り返されるバンウォンの孤独描写にも。
画面にカップを投げつけそうになり、六龍は48話なんだ!最後の2話は気のせいか、「六蛇が飛ぶ?(笑)」なる全く別のドラマなんだ!って方向で、自己暗示でもかけようかと思ったほどに。
変に気になって、少し日を置いて最終話だけ再度見直した結果、捉え方が変わり出すまでは、相当憤慨してました。
私は根も六龍も、やはり自分に一番近い民目線で見てたのですが、根の民像は最終話まですごく納得できるものだったんです。
一方の六龍では、自分の役割を最後まで果たそうとして命を奪われたヨニやパルボンおじちゃん、果たそうとしたのに果たせず、人生の意味を奪われたタンセらこそが、この動乱期の「本当の民」であって、バンウォンという権力者から特別視されたプニやムヒュルは、「特権的民」に思えてならず……。
今もその感覚はありますが、ムヒュルのおばあちゃんや他のパン村の人たちの描写も含めて、六龍は六龍として、民の描き方と締めくくり方に、納得ができています。
でも、納得に至ったのは、根を見ているからという部分も大きかったんです。
だから、御覧になっていない白香夏様が、あの(当初の私が怒り心頭だった)最終話から、たくさんの事を読み取られていたことに、レビューを見てすっかり感動してしまいました。
番組開始の時に映し出される、六龍がV字型に並んだスチール。
あれにはずっと、メーンの位置にいるバンウォンと三峰を対立軸にして、こんな風に人間関係が分かたれてしまうのかなと、嫌な予感満載でしたが、まさに、民たちまで命運が分かれてしまいましたね……。
権力者同士が争うと、その下にいる庶民も左右され、時には分断されずにはいられないという、なかなかシビアな現実を見せつけてくれました。
それでも、プニと、特にムヒュルが(大きく見れば、バンウォン側に括らざるを得ないものの)、盲目なバンウォン親衛隊でなかった点は、ある意味、救いだったかもしれません。
イ・ドに三峰やプニを重ねてきたのは、やっぱり、という印象でした。
特に終盤は三峰らに根の世宗を見ることが多かったので。
三峰+プニ。おっしゃる通り、ある意味、完全体ですよね。
ところが、世宗@根の(魅力的な人物像ではありますが)完全体じゃないっぷりといったら……。
六龍の子役のような「利発な純情無垢クン」の影、正直ありません。(笑)
バンウォン的な強権統治、三峰が残した「根の深い木とは何か」という思想、そして民の生き方について、それはそれはとことん問われて、それはそれは頭が疲れます。
六龍疲労のほとぼりが冷めた後、いつか是非トライなさってくださいね。
ところで、ピョン・ヨハンさん。
いやぁ、ユ・アインさんにも感心しましたけど、改めてピョン・ヨハンさんに感じ入りました。
いかにも熱演って感じじゃないのですが、プニといる時は眼差しも語り方もお兄ちゃんそのもので、ヨニといる時とは全然違う……等々、場面場面で細かく丁寧に演じていて、再三感心させられてきたのですが、48話のチョン・ドグァンとの再会からパルボンおじちゃんの最期のあたりには、仰天してしまいました。
あの場面は確か、ほとんどシーンの切れ目がないまま、感情の高ぶり→アクション→感情の爆発→アクションと、アップダウンのたたみかけではなかったでしょうか。
演技の事は勿論全然知らず、私なんか間違いなく「THE 棒役者」ですが、ああいうのは恐ろしく難しいんじゃないか、合間合間のアクションのせいで、感情を維持しづらいんじゃないかと、素人目にも。
それをあの高いレベルで演じられるんだから、びっくりです。
彼にはまだまだ引き出しや幅がありそうですよね。
それにしても、このシリーズが三部作になるかもって、本当ですか?……衝撃です。
まだ疲れろって言うのでしょうか。
つまり根や六龍と同じく、例の龍飛御天歌に沿って物語る、ということでしょか?
となると、絶対に世宗後の話ですよね。
うわぁぁ……。もろにハイソ階級同士の権力闘争だけってイメージで、民の物語が入る余地がないのですが。私の想像力では。
創られてしまったらそれはそれで、女子の香りゼロ世界にまた舞い戻っていいのかと、自分に毒づきながら、とりあえず試し見してしまいそうですが。
最後に。
50話完走、改めてお疲れさまでした。
きっと、こちらのブログ史上、圧倒的な最長記録ですよね?
私も過去のしまうまレコードを倍ぐらい更新しちゃいました。
ああ、なんてこと……。
しまうまさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
ありました!
確かに「これ(オッコルム)持って訪ねておいで」って言っているシーン、ありました!
ありがとうございます。すっきりしました!(笑)
いや~も~~。ほんとに。
「長丁場。毎回濃い。毎回頭フル回転=見るだけでいっぱいいっぱい」なこのドラマでしたが、しまうまさまの数々の名解説のおかげでドラマのメッセージに気づき、理解を深めることが出来ました。本当にありがとうございました。私の主観の中では、研究チームを組んで多角的な検証を重ねてきた感すらあります。その過程がなければ、現時点でのドラマに対する理解度は半減したことでしょう。間違いないです。なんならその多角的に検証を重ねた成果物を「六龍レポート」として提出できそうなくらいです。(どこに?笑)
『六龍が飛ぶ』は予想以上に本当に面白くて、本気で大はまりしながら見ていました。
だからこそ、離れたところから同じところに集まり、そこからまたすれ違っていく主役たちの姿には厳しいものがありましたよね。
私は「ありうべきリーダー像」をこのドラマは誰のどんな姿から提示しようとしているのかに興味があったので、チョン・ドジョンの思想や言動に共感的に反応することが多かったのですが、このドラマの中には「ありうべきリーダー像」を兼ね備えた人物はいないということが最終的には分かりました。
むしろ、色々とプラスマイナスのあるリーダーたちだったからこそここまで話がこじれたのであり、その「こじれ」からくる教訓から「こういう要素とこういう要素とこういう要素があれば、素晴らしいリーダーになるよ」ということを、最後幼いイ・ドをモデルに示したドラマだったのかな、と思っています。(とはいえ「根」のほうを見ると、そこともかけ離れた部分があるとのことですが。笑)
民も各々バラエティに富んでいましたが、「六龍」ではないけれど実質「7人目の龍」だったヨニの存在は、やはり大きかったように思います。
私はプニに関しては、今でいう市民社会のリーダーのような存在として見ていたので、プニはとても好きなキャラクターでした。今は市民社会のリーダーから政治家が輩出されていますが、六龍はその萌芽をプニを通して描いたのかな、と。
そのプニがバンウォンに近くなりすぎて、バンウォンの気持ちを内面化しすぎて立ち位置を見失いかけた時に役割を果たしたのが、ヨニ。ヨニが冷静に「なぜイ・バンウォンの視点で見るの? あんたは百姓なのよ」と目の覚める適切な一言を繰り出してくれたおかげで、プニは本来のプニ、民の利益を第一に考える独立した存在としての自分を取り戻せたように思います。ここなども民と民が交わす理想的な対話を描いているな、と思いました。
政治権力は常に市民から監視され、検証されるべき対象ですが、現代でも往々にして人々は権力者を「お上」のように思い、統治する側の論理を内面化していますよね。あそこの場面でヨニが悲しい顔であのきつい一言を放ち、それを受けてプニがハッと我に返ったのは、脚本家のメッセージがストレートに分かって共感できました。ヨニに言われていることの意味が分からない、権力者の視点を搾取される側の自分が内面化していることに気づけない民も、実際には存在しているわけなので。
そう思うと、民と民の対話、民と権力者の対話が様々な角度から描かれ続けたドラマでしたね。権力者同士の会話も。
改めて振り返っても注目しどころの満載なドラマだったと思います。これが濃すぎるおかげで他のものを見れないっていう副作用は、少々きつめに出ましたが。(笑)
いやー、この六龍のせいなのか、書き始めると止まらないっていうのも困った現象です。
六龍を3期くらいに分けて、延々定義づけやら解釈を行ってしまえそうです。でもそれをやるには、「根」を見るのは必須でしょうね。やはりこのドラマは、「根」を見ずしては、完成しないっていう。どこまでも視聴者に畳み掛けてくるドラマでもあります。(笑)
そして、3部作の噂・・・。
確かにあるんです。鬼ですよね。(笑)
時代は、私が大はまりしたパク・シフさんの『王女の男』の頃が候補となっているようなんですが、『王女の男』も民といえば酒場の人たちくらいでした。そもそもロマンス重視でしたが。(笑)
脚本家の方が、「もしキム・ジョンソVS.首陽大君(世宗の次男で第7代王の世祖)の時代を描くとなれば、民の入る余地がないので、うーむ」と確かに仰ってました、インタビューで。さすが、しまうまさま!
本当に長丁場なドラマでしたが、最後まで一緒に楽しんでくださって、本当にありがとうございました。
おかげさまで一つのドラマに半年を費やしながらも、楽しく書き続けられました。
途中頭から湯気が出たりしましたが。(笑)
六龍がようやく終わったというのに、私も女子っぽいドラマに戻れなくて困っています。
放置したままの「太陽の末裔」がなんと視聴率30%を超えているようなので偵察にいきたいところなのですが、モードを戻すのが어렵지 말입니다.(戻っとるやないかい!笑)
ありがとうございました。(^_^)
こんにちは。
発売されたばかりのタンセが歌う「青山別曲」を聴きながら書いています。
終わりましたねー・・・私には48話のパルボンおじさんがタンセをかばって死んだシーンがピークで、そのあとは抜け殻のようになってしまいました。そして50話でタンセの行く末をチラリとも映してくれなかったのに恨み節です。だって、49話の終わりに流れた50話予告にはヨンヒャンと山道を夜歩くシーンがあったんです。よくもカットしてくれたわね~~。年老いたプニのシーンを30秒削って、予告にあったシーンでなくても、4話のような山の上に佇んでいる姿でもよかったのに。ぶつぶつ。
それからイ・ソンゲも途中で消えてしまいました。「六龍」ってタイトルなんだから、やはり6人全部やってほしかったです。
最後まで見てきて一番やるせないのは、いわゆる勝利者に近い人は(葛藤はあるにしろ)幸せで、そうじゃない人は不幸になった、ということです。これは政治に限らず世の中によくあることではないですか? 上の人に自分の人生が左右されること。例えば「未生」でも途中でそうなりかけました。でもそうじゃない道を選んだ人が自分なりの幸せな人生を切り開いていけた、というシーンを見せてくれたことに、私は感動したわけです。時代が違うと言われればそれまでですが、「六龍」でそういう描き方をされた人が三峰先生側にいなかったのが残念です。私にはプニがそういう例だとはやはり思えなかったですね・・・。
ドラマを見る時に私の好きな俳優が”可哀想な”役をやることが多いので、途中ユ・アインさんのファンだったら良かったなあ、と思ったんですけども、終盤「ああ、自分がファンである俳優さんがこの役をやっていたら胸が苦しくてつらい!」と思いました。それだけユ・アインさんの演技がすごかったということで・・・本当に素晴らしかったですね。しばらくイ・バンウォンのドラマは出てこないんじゃないかと思うくらいです。
そして、しまうま様も書いてくださっているピョン・ヨハンさんの48話の演技、ヨンヒャンとの再会シーンの演技が破綻気味だったので(苦笑)実はちょっと心配していましたが、見事に演じてくれて本当に良かったです。そして全編にわたり、かっこいいアクションを見せてくれたことも。
「ケユジョンナン」・・・死六臣・・・うーん、重い! しかし見てしまうかも(見ると思う)。
「根の深い木」ではイ・シンジョクをユクサン先生がやっていたりしますので、ピョン・ヨハンさんも違う役で出てくれたら嬉しいです。でもまた可哀想担当かなー。
見終わったあとに、こちらに来て白香夏さまの文章を読ませていただき、理解がより深くなったことや、自分の感想ややり場のない悲しみ(あくまでもタンセ目線ですみません)を書かせていただいたこと、本当にありがたかったです。こんな長いドラマを最後まで・・・どれだけ大変でしたでしょう。どうもありがとうございました!
白香夏さまの”脱・六龍”は「太陽の末裔」なのですね~(日本放映が6月からに決まったようです)。
私は46話くらいから、「もう、絶対このタンセの最後のまま、次のピョン・ヨハンさんの仕事を待つのはつらい!」と思い、インターパークで「ヘドウィグ」のキャンセルをこまめに見ていたんです。そしてある日の夜明けにキャンセルチケットをゲットできました。しかもピョン・ヨハンさんの誕生日の4/29の夜・・・。その後もキャンセルを繰り返して2階最前列まで前進。ということで連休に見てまいります! これから「ヘドウィグ」の予習に入ります。私の”脱・六龍”は「ヘドウィグ」です。
翌日のチョ・ジョンソクさんの公演も買いました。「花より青春 アイスランド編」(日本放送が始まっております)とは全く違ったチョ・ジョンソクさんも見てまいりますね。
eripodさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
いや~、終わってしまいましたね~、私たちの六龍が。
50話もの長丁場でしたが、eripodさまがいつも感想を分かち合ってくださって、どれだけ励ましを頂いたか知れません。
一緒に楽しんでくださったおかげで、この六龍を何倍も味わうことが出来ましたし、知らないこと、気づいていないことをたくさん教えて頂きました。本当にありがとうございました。
私たちを熱く燃やした「ピョン・ヨハンをひたすら絶賛する会」を、またeripodさまと開催したいです!そのためにも早くまたいい作品でうちのヨハン君には戻ってきてもらわなくては!(笑)
そして、確かに仰るとおり、そうでしたよね。バンウォン側の人間とチョン・ドジョン側の人間。
幸不幸が明確に分かれてました。
そりゃあプニも「幸せ」とは断言できませんが、少なくとも生きる希望を持ち、仲間とともに過ごす中で天寿を全うできたのですから。
コメントを拝見して私も50話の予告編を観てみましたが、確かにカットされたタンセとヨニャンのシーン、ありました!
ここ、なぜ削ったんでしょう?!(ブーブー)
タンセが体現していたメッセージはドラマ全編を通じてとても大きかったので、「その後」がちらりとも描かれなかったのは不満です。
50話もあったのに、最後尺が間に合わなくなったのでしょうか。
バンウォンとプニの場面を最終話で盛り込みすぎたせいな気が・・・。
イ・ソンゲはバンウォンに怒って死ぬまでバンウォンに会わなかったと歴史に残されているそうなのですが、最終回なので確かにイ・ソンゲにも触れて欲しいところでした。
私は一般化したプニというキャラクターは好きなのですが、これが地上波の限界なのか、プニとバンウォンの恋愛含めた場面が多すぎるというのは中盤以降不満でした。
脚本家は間違いなくプニというキャラクターに並々ならぬ愛情を抱いていると思うんですよね。だから、最後のプニがお婆さんになってからのシーンも結構な分量を割いていたのだろうと思います。
ただ、見ている側にプニという人間がそこまでの気迫で真に迫ってこなかったというのは、なんとも残念でした。
プニは、台詞だけを取り出せば言いたいことが理解できるのに、演技が台詞の意味をぼやけさせてしまう場面が何度もあって。ただでさえ「プニ疲れ」が起きているのに最終回もプニを中心に回ったので、「またそこでプニ絡めてくるの?」と脚本の「プニ押し」に違和感を唱えている批評を目にもしたのですが、それも充分頷けました。
ムヒュルは前のコメントで仰っていましたが、私も当初の性格から矛盾をきたしてしまったと思います。
カールおじさんになってからですよね、ムヒュルが壊れたのは。(笑)
ヨニとバンジのこともあんなに応援していたムヒュルなのに。
ムヒュルをあの状況で最後「六番目の龍」と持ってきたのは、ちょっと脚本が破綻してたと思います。取っておいた割りに無理矢理感が否めませんでした。
と、どうしても最後の展開に引きづられてしまいますが、名場面は本当に多かったですよね。
勿論ピョン・ヨハンさんの。(笑)
刺客や講談師だったタンセはとても魅力的で、でもヨニと再会してからはいつも眉毛が悲しい八の字で。
洞窟で怒って怒鳴っているシーンやら、チョンニョン和尚の寺に侵入して戦うシーンやらヨニと再会した時の衝撃の涙やらを見直しては、またひとりアップダウン激しくなっております。(笑)
ピョン・ヨハンさん、本当に素敵でしたよね。めちゃくちゃカッコ良くて、完全にやられました。
それはそうと、おめでとうございます! ヘドウィグのチケットをゲットされたのですね!しかもチョ・ジョンソクさんの回まで!!
いや~ん❤
素晴らしすぎます!私も5月後半にかけているのですが、ご覧になったら是非ご感想を!わたくしめにも!
・・・ってどさくさに紛れて図々しくてすみません!(笑)
いや~、生ヨハン。気絶するかもですね。
しかも歌っちゃうんですもんね。
いや~。想像しただけで脳内がピンク色になってきました。
チョ・ジョンソクさんも見たいです、私も!(笑)
そうですか~、すでに『花より青春アイスランド』が放送されているのですか。
衝撃的なメガネ姿もさらしてましたが、それでも着実にファンを増やしちゃうんでしょうね、アイスランド編で。
「ヘドウィグ」、私も気合を入れてチケット争奪戦に参加してみます。
などと書いたそばから早くもそわそわしてまいりました。(笑)
ありがとうございました。(^_^)
白香夏さま、こんにちは(´∀`)
遅ればせながら、この日曜日にKNTVでの放送が最終回でした。
韓国リアルタイムの時も、最初はあらすじを知っておこうと読んでいたのですが、なにぶんにも登場人物が多すぎて、だんだんと理解が追いつかず…( ̄∀ ̄)
日本放送視聴後に、またここで確認しながら読むのを楽しみにしていました。
さて、わたくし、皆さまのご意見とは少し違うようなので、コメントをさせて頂いていいものやら、少し悩みつつ、私の周りではまだこのドラマを視聴完了した人がいないため、ぶつけるところがなく…。
すみません、ご迷惑と思いますが、少し聞いてくださいませ(´艸`)
私は、『根の深い木』を日本初放送当時に観て、難しいながらもとても感動したので、今回のドラマも楽しみにしていました。
そして、『根の深い木』を観るまで、チョン・ドジョンという人物すら知らずにきたので、このドラマを観た時から、チョン・ドジョンという人物にいい印象を持つことができず、今回のドラマもそういう意味で、最初からチョン・ドジョンに対してナナメな目線で視聴が始まりました。
なぜいい印象がないかというと、言っていること、打ち出している政策は確かにいいものだと思いはしますが、実際にやっていることは、高麗のトップがしてきたことと何が違うの?と思ってしまうんです。
自分の思い通りになる王を立て、王と王族は政に加えない。
このことがまず、私にはわからない。
それならば、王権そのものをなくせばよかったのではないのか?と思うし、自分がほとんどの権力を握る、というのもどうなんだ?と思うんです。
だけどやはり、魅力ある人ではあったのでしょうね。
政敵となったバンウォンさえも、心の底では慕い続けたのですから。
バンウォンを危険な人物として排除しましたが、結局、やり方は別として、最終的にドジョンの政策を成し遂げたのはバンウォンだったのではないか?とすら思ってしまう。
バンウォンを、人を排除するのではなく、そのような人をも上手に使うことができなかったところに、ドジョンの弱点があった気がします。
だからと言って、決してバンウォン押しではありませんけども。
『大風水』の時のバンウォンが、チョン・モンジュを殺害した時にものすごく引いてしまい、これが史実だったのだと今回改めて知り、二度ビックリ!(遅っ!)
だけど今回のバンウォンは、皆さまほどキリキリと不快な思いを持ち、ということがほとんどありませんでした。
でもこれは、ひとえにユ・アインさんの演技のなせる業かと思われます(´艸`)
アインさん、本当に素晴らしい演技でしたよね。そりゃ、最優秀賞だわと今更ながらに納得でした。
アインさんがバンウォンを演じたからこそ、バンウォンの立場にたって観ることが出来た気がします。
バンウォンのしていることは、結局は自分の周りの人を去らせてしまうことで、自分でもわかっているけど、走り出したら止めることができなかった、というバンウォンの悲しみと孤独が感じられる演技だったと思うんです。
決してバンウォンのしたことを理解し、認めているわけではありませんが…。
そして、イ・ソンゲにも疑問があるんです。
ソンゲはあんなに家族を第一としてきた人なのに、バンウォンのしたことは許されることではありませんが、それでも、最終的にバンウォンへの愛情が、欠片も感じられなくなってしまったことがとても悲しかったんですよね。
バンウも結局はソンゲの元から去ったし、息子たちの心をも思い測れない人が王でいいのか?と。
ソンゲが王座につくことを決心したために、家族がバラバラになってしまった。
私はそのことがものすごく悲しかったし、実はソンゲは弱い人なんじゃないか?と『大風水』の頃から思ってました(´艸`)
本当に王座にふさわしい人だったのか?と…。
タンセとヨニも応援していましたが、ヨニのタンセに対する愛情はよかったし、言葉にすることはできずとも、一度でも口づけをかわせたことはよかったな…と思いました。
ヨハンさんも『未生』の時と違い、全然ニュルたん(←友達がそういうんです…)じゃないし!
撮影前に約1ヶ月半、アクション訓練をしたということですが、決まってましたね♪
でも朝鮮建国以降のヨニは、ちょっと理解できない人物でした。
プニに『あんたは百姓なのよ』と言いましたが、ヨニは?元は同じじゃないの?と思ってしまった。
ドジョンの側で仕えていることが、そんなに偉いことなんだろうか?と…。
そしてこれはフィクションなんだと思いますが、ドジョンがヨニのような隠密の存在を駆使していたとしたら、密本なる秘密結社を本当に作っていたのだとしたら、これこそが高麗のトップたちと何が違うんだ?と思う点です。
ドラマとしては面白いですけど、事実なら、私ならドジョンにとてもじゃないけど同調できない気がします。
全然、国が新しくなったと思えないからです。
だけど、いつも時代劇を観る時に、王があまりにも無力なので、どうして?と思っていましたが、
ドジョンの王と王族排除がここに活きていたのでしょうか?
それなら今までの疑問が払しょくされるような気もします(´艸`)納得はしてませんが…。
王も王族も人間ですし、バンウォンのように何かしたい人や実際に手腕ある人もいたかもしれませんしね。
世宗などはある意味、手腕のあった人と言えますか…。
バンウォンも政のメンバーに加えていたら、こんな悲劇は起こらなかった気もしますがどうでしょうね?
ところで、ムヒュルを演じたユン・ギュンサンさんですが、『ピノキオ』での演技がとてもよく、今回も見るのを楽しみにしていました。
だけど、ムヒュル…『根の深い木』の時と違い、最初はあまりにもおバカな子のようで、ええ~?!でしたが、考え方はともかく、明から帰ってからのムヒュルがカッコよかったです(〃∇〃)
50話のバンウォンとプニを救いに来た時のムヒュルのセリフが、チョン・ジヌンさんに見えてさらによかったです(´艸`)
けれど、タンセやムヒュルたちは、民たち以上に、この動乱の世の被害者であったのかもしれないですね。
『根の深い木』では、ムヒュルがただ一人勝てなかったのがバンジだったので、『六龍』でのタンセとムヒュルの仲の良さに、ちょっと意外な思いも持ってしまいました(´艸`)
そして現実世界でも、タンセとムヒュルの撮影時の仲の良さは見もので、韓国HPの映像スケッチで見る二人はホントにブロマンス❤
ムヒュルにどうしても、ぽっぽしたいタンセのようでした(´艸`)むふふ…
アインさんは、あるシーンの撮影に登場された時、周りから『思悼世子』って言われてました(≧▽≦)
折りしも現在、GyaO!で『根の深い木』が配信中なんです。
録画も持ってはいるのですが( ̄∀ ̄)、毎週2話ずつ、また再視聴しています。
『六龍が飛ぶ』を観終って、新たな発見があると嬉しいなと思います。
白香夏さまはこれから『根の深い木』の視聴、今後ないでしょうか?
もしあれば、レビューアップして下さるとものすごく嬉しいです(〃∇〃)
って、ないですか?(´艸`)
白香夏さまの中ではすっかり終わっているドラマですのに、長々と申し訳ありません。
ちょっとすっきりしました(〃∇〃)
聞いて下さってありがとうございましたm(u_u)m
NICOさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
六龍全50話を完走されたのですね。
まずはおめでとうございます。実にストレスのたまるドラマを走りきられて。(笑)
しかしNICOさまはそうでしたか。そのようにお感じになられたのですね。
私自身は歴史上の人物でも現代の政治でもそうですが、よしとするか否かを判断する為政者のポイントがいくつかありまして、そのうち大きいのが治める民を食べさせることに責任を負っているかということと、民を戦に狩り出して無駄死にさせないかという点なんですね。この基準に照らした時、後者の面は終盤違いますが、私はやはり六龍のチョン・ドジョンは評価に値するんです。土地改革で(志半ばで終わりましたが)民に土地を与え、食べさせようと考えたのは中世の時代では画期的だったと思いますし、誰のほうを向いて政治を行っているかを問うた時、六龍でのチョン・ドジョンは民の側を向き続けたのではないかと思うので、その点でも評価しています。
あとはやはり、過渡期に権力の集中は避けられないという気がしますので、そこは許せました。(成功すればなおのことよかったのですが。笑)
そして、私がヨニに思う残念なポイントは、本当に最後なんですよね。
どうしてタンセのために生きてくれなかったのかって。
死なないで欲しかったです。彼女はあのひどい目にあって以来ずっと一貫して死を覚悟し、いつ死んでもいいくらいの気持ちで生きてきた女性なので、あの最後には矛盾がないと言えばないのですが、そんなヨニだったからこそ個人の幸せを考えて欲しかったと悲しいんです。
私はヨニがプニに言った「あんたは百姓なのよ」のセリフは、『プニには生きて欲しい、私は乱世(政治)の犠牲になったとしても』、という意味だと捉えているんです。プニはあのままだと「権力者に利用される、可哀想だけど愚かな民」のパターンを踏みそうでした。
本当は、タンセと心を通わせてからはヨニも自分の幸せのために状況から降りたい気持ちもよぎったんじゃないかと思うんです。脚本がそのあたりをもうちょっと書いてくれてれば、とないものねだりの気持ちはあります。
でもチョン・ドジョンがヨニとタンセを結婚させて、ヨニを自分のそばから外そうと考えていることを告げるシーンが挟まれたのが、せめてもの慰めでした。そんなチョン・ドジョンだったからこそ、ヨニは命を差し出してしまったわけですが・・・。
なーんてことをコメントを拝見して考えました。どうしてこのドラマは書き出すと暑苦しくなってしまうんでしょう。すみません。(笑)
私は基本的に時代劇を見ないのですが、NICOさまのように別の角度から描かれた時代劇を見ていたら、また感じ方が違うのかもしれませんね。
それにしても、感じ方はそれぞれあるにせよ、報われないドラマであることは共通しますよね。
視聴者が全50話も見続けたのに、どの角度からも最後すっきり出来ないって一体。(笑)
そして仰るとおり、そんなストレスのたまるドラマを最後まで見させたのは、ユ・アインさんの類まれなる演技力ゆえだと思います。
ユ・アインさんは、本っ当に素晴らしいです。私もここまでのかただったのかとビックリしました。
私も最後までバンウォンを憎みきれなかったのは、ユ・アインさんのせいで間違いないです。(笑)
ありがとうございました。(^-^)
>「イ・バンジに、否、ピョン・ヨハンに惚れた」等のコメント、いつでも万全の構えでお待ち申し上げております。(^.^)
とのお言葉に甘え、お邪魔させていただきました。
その際のコメントでも書きました通り、香夏さまのレビューに加えて、コメント欄でいろいろな方が分析、検証され、卓越した表現力で香夏さまとやりとりされているのに毎回感動しておりましたので、拙い文章力ながら私も少し(長くなりそうな予感(@_@))参加させていただきたくて^_^;
今まで見た私の韓ドラNO.1が「根の深い木」ですし、実はキム・ミョンミン好き(俳優としてですが)なので、彼のチョン・ドジョンにとても期待していたのですが、ドラマの流れと並行してアイン君の存在感がミョンミンssiをいつの間にか上回ってしまったことが少々残念な点でした。見る前はドジョン主役!と勝手に自分の中で決めてしまっていたので。(タイトルを読めば分かりそうなものを、とのちに反省)
「大王世宗」を見た際にイ・バンウォンを少し調べて、次々と粛清を行った人という人物像が私の中で出来ていたのを、生き生きとした前半のバンウォンをアイン君が見せてくれたせいで、もしかして冷酷でないのかもという錯覚を抱いてしまったのが誤算でした。アイン君の演技力にまんまとひっかかったかのように。
後半の苦悩なんかは出来事やセリフで描かなくてもアイン君なら充分表現できただろうに、と皆様がいらんぞ!と語られていたいくつかのシーンなんかは私も同感しました。
最終話後半は突然「根の深い木」になっちゃってあらあらと思いましたが、中盤でバンジとチョク・サグァン、プニとタンセ(ややこしくしてすみません)の会話に、私なりの「六龍」を終えた感があり、それなりに納得して見終りました。
守りたい人が多すぎていつも辛そうだったイ・バンジ。
守りたかった人を守れなかった悔いのあるイ・バンジとチョク・サグァン。
守りきれなかった人もいたけれど、それでも守るべき人のために生き続けようとするプニ。
自分たちだけしか守ろうとしなかった無名は消え、守るべき人たちを力で手に入れようとして孤独になったバンウォン。
「根」の時に架空の人物の最後についてこの作家さんの描き方に自分を納得させていたので、ヨニの死についてはある程度納得はしています。
それでももう少しタンセと幸せな時間を過ごさせてあげたかった。
「むやみに切なく」なんかよりうんと切なかった25話エンディングを忘れることはできません。
イ・バンジのその後がハッキリ描かないまま終わりましたが、彼は幸せに暮らせているのだろうか…「根」であの俳優さん(ノウル大人!)にバンジを演じさせておきながら、こんな気がかりな男として心に刻ませるなんて!!
ヨハン君は「未生」とこのドラマだけなので、「元カノ倶楽部」見てみようかしらん、なんて思っています。
最後つまらないネタになりますが、抜群の存在感で登場したハ・リュン役チョ・ヒボンssi。「根」でもハン・ミョンフェとしてチラリながら強烈な印象を残しています。
3部作なら、次はこのあたりでは?と私も思います。
yumaさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。
いらしてくださって、とても嬉しいです。(*^_^*)
yumaさまも『根の深い木』のファンでいらっしゃったのですね。
しかも韓ドラNo.1とのこと。
私のなかで「根」を上位にあげていらっしゃる方は、みなさますこぶる「お目が高いかた」と決定的に刻まれております。
「根」を見もせずに六龍に挑んだ自分を、どれだけ後悔したか知れません。(笑)
ユ・アインさん、本当に素晴らしかったですよね。
みなさん素晴らしかったのですが、ユ・アインさんはやはり傑出というべき演技でした。
キム・ミョンミンさんのチョン・ドジョンも、とても良かったです。
そしてやっぱりタンセが。(とえこひいきをば。笑)
六龍は一話一話が濃くて、私は途中、1話見て5話分くらい見た気になり、どっと疲れておりました。
禅問答のようにああでもないこうでもないと問いかけてくるシーンも多く、すっきりと方向を提示しない脚本が歯がゆいこともあったのですが、そのすっきりしなさを最後の最後50話でまとめてきたあたり、脚本力が凄かったなと改めて思います。
みんないい人なのに、ここまで道が別れてグダグダになるっていう切なさも、ありました。「やっぱり人が良くても駄目なんだな。何をその瞬間に選択するかで人間決まるんだな」、などと思うことも多々で。でも六龍の人たちは、ヨニも含めて自分の取った選択にちゃんと責任は負いましたよね。
こうしてまた改めて振り返っても、色々考えさせてくれるドラマだったと思います。
個人的に、無名はもう少しスケールの大きな何かが欲しくはありましたが。(笑)
ハ・リュン役のチョ・ヒボンさん、「根」でハン・ミョンフェだったことが分かるのですよね?
アクの強い策士ってことで、六龍でもキャラをかぶせたのでしょうか?(「アクが強い」はドラマ上でのイメージの話ですが)
確かに3部作目があるなら、噂されている時代から考えても、チョ・ヒボンさん、間違いなく再登場されそうです。
最近また株を上げているチョ・ジヌンさんなどにも再登場願いたいですよね。何かの役で。
などと書いているとまるで3部作目を望んでいるかのようですが、タンセを超える魅力的なキャラはそうそうないと思うので、私としては六龍で十分堪能しつくしました。この脚本チームが罠のように難解な話を持ってくるらしいことが分かったので、また挑むのはかなりの覚悟なしでは無理そうです。
といいながら、ピョン・ヨハンさんがキャスティングされたら間違いなく飛びつくのですが。(笑)
タンセから元カノクラブへの転換も、かなりのイメージ違いですね。
元カノに囲まれて楽しそうなヨハン君を見て、タンセで感じた悲しみが一気に癒される効果はありそうです。(^.^)
ありがとうございました。
よろしければ、これからもまた是非遊びにいらしてくださいませ♪
こんにちは。今回はこちらにぶら下がります
いやぁ~、タンセ寄りなのかもしれませんが、なんとも力作なレビューですね!すっかりお復習いさせていただきました(読み込みすぎて頭ヘロヘロですが・・・)。
『根の深い木』(以下、根の)があっての『六龍が飛ぶ』(以下、六龍)なので整合が難しいところもありましたが(同じ役者も多いし)、たいへん楽しめました。でも、哀しいよりも悲しいドラマでした。
ドラマ『鄭道伝』が自分には今イチだったのですが、『龍の涙』も見ていたので『六龍』は史実の流れががスムーズに入ってきました。イ・イギョムは史実のイ・イニムなのだと思いますが、名前を変えたのは史実とはだいぶ違うってことなんですかね・・・自分には『鄭道伝』のイ・イニムもイ・イギョムもキャラとしてはそんなに違いを感じなかったのですが(~_~;)
タンセ@バンジが最後に三峰を助けられませんでしたが、『根の』ではバンジが三峰の側室(六龍ではカチェ着けてました)と恋仲になりその側室を人質に囚われ助けに行って間に合わなかったとされていました(自害は六龍と同じ)。三峰の側室:ヨニ・・・どう処理するんだろ?と思っていましたが、どこかのシーンで誰ぞやたちがヨニを「あれが三峰の女か?」、「ああ、そうらしい」というようなセリフがあって、人によっては愛人関係?にも見えてもおかしくない親密度なのだなと無理矢理納得しました。
イ・シンジョクが瀕死のナム・ウンに「お前は朝廷内で偉くなれ」と言って自分の命を差し出しますが、『根の』でイ・シンジュク(六龍で六山役)に同じことを言ったのは、チョン・ドジョンの息子・若きチョン・ギジュンでした。
他にも同様に惜しい!ところはありましたが、やはり総体的には面白かったです。
話はコロッと変わって一つ不思議に思っていることがあるのですが・・・。
タンセ@バンジがやけに目の荒いメッシュのような編み笠を被って登場しますよね。あの編み笠、他の歴史ドラマでもよく見かけるんですが(『海神』のヨムジャン@ソン・イルグクとか)、あんなに目が荒くては人目も忍べないし、日傘としても役に立たないだろう!といつも見る度に思ってしまうのですが・・・。あれはオシャレアイテムなのでしょうかね?
本筋よりもついつい変なところに目がいってしまって・・・(´Д`。)
三峰って実際はかなりお腹が出てデップリしてたとか・・・。バンウォンに襲われて近くの民家に逃げた際、追っ手の者に「誰か来なかったか?」と問われた民家の主が「お腹のすごく出た人は来ましたが・・・」と。追っ手は「三峰に間違いない」と確信。そして囚われたとか読んだことあります。
それと、『六龍』のチョン・モンジュ役の人は初めて見る役者さんだったのでどうも人徳ある人に見えなかったのも自分としては残念でした(;^_^A
また、再読させていただきます
宮崎@大福さま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
このドラマの中に出てくる三大悪党とも言うべきイ・インギョム、ホン・インバン、キル・テミは、各々実在の人物イ・イニム、イム・ギョンミ、ヨム・フンバンをモデルにしています。
名前をわざわざ変えたのは、今私が書いたとおり「悪党」だったからのようです。
韓国で1700万人が見た、李瞬臣将軍を扱った映画『鳴梁(ミョンリャン)』(邦題『バトル・オーシャン/海上決戦』が2014年夏に公開されたのですが、この映画の中で李瞬臣将軍を暗殺しようとしたり、亀甲船に火を放った大変な反逆者として描かれている将軍ペ・ソル(裵楔)の末裔が制作者や配給会社を告訴する事態が起きたんです。実際のペ・ソル(裵楔)は、戦況が不利と見て敵前逃亡を図り、捕らわれて斬首されたものの、のちには功労も認められた人物ですが、過度に悪者として描き、虚偽の流布によって子孫の名誉を毀損したということでした。
この告訴に関しては、警察が嫌疑なしとしたものを検察が配給会社CJ エンタテインメントの再捜査に着手するなど、当時的には不可解で今はカラクリが分かる後味の悪い後日談がついているのですが(CJ エンタテインメントは政権のものさしからは癇に障る映画を作ったことから、各種不利益をこうむっていたことが現在明らかになっています)、当時この訴訟が非常にドラマ・映画制作者を萎縮させる機能を果たしていたため、『六龍が飛ぶ』でもそうした訴訟沙汰を未然に防ぎ、より自由に描写すべく悪役を架空の人物にしたようです。
ヨニは、『根の深い木』で既に「三峰の女」ということだったので、六龍でもそうだったのでしょうね。タンセが現れるまでは。
と私は解釈しておりました。実際韓国の番組紹介でヨニは「タンセの恋人でありチョン・ドジョンの恋人」と書いてあります。私は「なんて悲しい展開なんだ!」とこの人物紹介にやられたのですが、蓋を開けてみると「チョン・ドジョンの恋人」としての描写がなく、若干がっかりしました。恋愛を上手に描けないといわれている脚本家の方だったので、盛り上がれるはずのところを避けたのではと勝手に解釈しております。(笑)
それはそうと、チョン・ドジョンはお腹がでっぷり出ていたとの記録があるのですね?
そうですか。なんとなく、「裕福な暮らしをしていた悪い奴」のイメージを植えつけようとしているのかとも思えますね。歴史は勝者の物なので。(笑)
チョン・モンジュ役のキム・ウィソンさん、確かに映画でも悪役ばかりなので、私も悪役に見えてしまっていました。
この「六龍」、配役が気に入らないという声はわりと聞きますよね。
私はチョン・ホジュンさんの李成桂がどうにも馴染めずでした。チョン・ドジョンのキム・ミョンミンさんも、伝統歴史劇のKBS1制作『鄭道伝』から比べると重みがないという声も多々聞かれましたし。バンウォン以下若者世代は文句なしですが。
ありがとうございました。(^-^)
白香夏さま
初めてコメントさせて頂いております。
突然、過去記事にお邪魔いたします。
以前から、ドラマや映画を見ていて 疑問に思ったこと、
いまひとつ理解ができなかったことを調べると 必ずと言っていいほどに
香夏さまのこのサイトにたどりつきました。
そのたびに見事に疑問が解決したのでした。
ほんとうにほんとうに、学ぶことが多く、お世話になっています。
言語の達人、日本語も韓国語も どちらも達人でいらっしゃると尊敬申し上げています。
本当に基本的な質問をさせていただきたいのですが
この「六龍が飛ぶ」でも
以前から思っていた疑問をまた持ちましたので
香夏様にお教え頂ければ幸いに思います。
シン・セギョンさん扮するプ二の 呼び名についてです。
ドラマ最初のタイトルのところで、漢字表記で「プン」(日本語では使われない漢字で、
上に「林」その下に「火」という字を書く漢字) そして「伊」と表記されています。
これを読みますと、 パッチムで終わる名前「プン」に、~~ちゃん、というような場合に
パッチムの後につく「イ」がついた名前なのではなく、初めから「プ二」という、パッチムなしの名前の
ように見えるのですが、
ドラマの中で登場人物が「プナ。」と呼ぶ場合が何度もありました。
しかしまた一方で、「プ二や。」と呼ぶ場合も多くありました。
これは、プン という、パッチムで終わる名前なのですか?
それとも、プ二 というのが 名前なのですか?
基本的な、韓国語の名前についての質問です。
最後まで目が離せなかった、このドラマの内容とは、これは直接は関係のないことで申し訳ないのですが、
お時間のある時にでも、教えて頂くことができれば とてもうれしいです。
「三食ごはん 漁村編3」 でも、
キュンサンくんが
猫ちゃん(モン)のことを「モニや~」と読んだり
「モナ~」と呼んだりしているのを見て
どちらの呼び方でもOKなのだろうか?と疑問におもっています。
お手数をおかけいたしますが、宜しくご教示ください。
これからもず~~っと
生地を楽しみにしています。♡♡
白香夏さま
何度も失礼いたします。上に書かせて頂いたことについて
補足があります。
プ二の名前の「プン」の文字が、日本語では使われない文字であると書いたのですが
間違っておりました!( ああ日本語の知識が。。お恥ずかしい!)
焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の「焚」でございましたね!
「六龍が飛ぶ」ドラマの冒頭のタイトルロールでは、プ二の
名前は「焚伊」との表記でした!
この書き方ですと「伊」の部分までもを含めて、彼女の名前であるのかなあ、と
思ったわけなのです。(「焚(プン)」までが名前なのではなく。)
もう一つ、付け加えさせていただきたいのですが
タンセがイ・ソンゲ将軍から、名を聞かれ、「タンセといいます。」と答えた時に
周りにいた皆が くすっと笑ったシーンがありました。
これは「タンセ」 という名前が、きちんとした姓を持つ
ひとかどの人物である名前なのではなく、百姓の子供の名前のままで
あることを笑ったのでしょうか。
日本で言えば、「徳川家康」という名前ではなく、
幼名の「竹千代」というような、
「伊達政宗」でなく「梵天丸」(同じく幼名)のような、
男としてのきちんとした名を得る前の名前というような、
そういうことに近いのでしょうか。
日本でも明治になるまでは
百姓には姓がなく、男性も「弥助(やすけ)」だとか
「茂吉(もきち)」なんて言う名前がすべてだったとおもいますが、
「タンセ」という名前は、そんな響きに近いのかな??と考えました。
またまたこんな質問でごめんなさい。
↑で誤字を送ってしまいました(汗)
香夏さまの「記事」を、これからも本当にいつも
楽しみにしております♡♡
nanaさま
はじめまして!
コメント大変嬉しく拝見いたしました。
これまでもご覧くださっていたとのこと、どうもありがとうございます。(*^_^*)
さて、プニの名前の件ですが。
韓国の公式サイトには、プニの名前に漢字はありませんが、ご覧になったというその番組は日本で放送されたテレビでのものでしょうか?
見てみましたところ、中国で放送された(正式のものかは分かりませんが)ものには、お話しくださった「焚伊」という名前がついているようです。
中国語圏で韓国ドラマに字幕を付ける際は、元々漢字のない名前にも当て字を使うのですが、ご覧になったものが日本での公式な字幕版だとすると、ちょっと私には推測以上のことは分かりません。
『六龍が飛ぶ』は原作小説などもないので、そのプニの名前の漢字の出どころが個人的には気になります。
勿論日本で字幕を付ける際に作者(脚本家)に字幕を請け負った会社が連絡を取って、わざわざ漢字を教えてもらうというプロセスを踏んだ可能性も否定はできませんが、そこまで労力をかけるケースが実際あるものなのか。
ということで、
推測1.プニの名前の漢字は当て字である
推測2.プニの名前に漢字があることを原作者に確かめ、確認したものである
となるかと思います。(笑)
さて、その上で「プニ」がいろいろな呼び方をされるという件ですが、通常朝鮮半島の名前では「プ」という漢字と「ニ」という漢字の組み合わせで名前が出来上がっている可能性は極めて低いので、nのパッチムの「プン/pun」に「イ/i」がついて、リエゾンして「プニ」という構成だろうと解釈されます。
「イ」はパッチムを有する直前の名前の後について名詞化する作用があります。
例えば「チャン・ヒョク」という名前だと「ヒョク」のkのパッチムのあとに「イ」がついて、「ヒョギ」に。ここで「ヒョキ」とならないのは、平音は冒頭以外は濁音化する法則によるものです。
それで、「プニヤ」の「ヤ」は呼びかけを意味する語尾、「プナ」は「プニ」の名前の根幹である「プン」にダイレクトに呼びかけの「ア」をつけて「プナ」。
「ヤ」も「ア」も呼びかけを意味する語尾である点で変わりありませんが、前者はパッチムのない場合につき、後者はパッチムがある場合につきます。
例えば名前の最後にパッチムのない「ソン・ジュンギ」だと「ジュンギヤ」で呼びかけの形に、最後にnのパッチムのある「ソン・ホジュン」だと「ホジュナ」、で呼びかけとなります。
「ホジュニ」とイがプラスされてリエゾンしている場合は、名詞化させています。
名前なのに名詞化させているとは奇異な説明と思われるかもしれませんが、要するにパッチムがあると逃がしてあげるという法則がまた韓国語にはあるのです。
発音しずらいので。
ちなみにこの「イ」は人の名前に使います。
なので、例えば「窓」というものを擬人化して「窓ちゃん」としたいとすると(そんな人がいるか分かりませんが。笑)、「窓/チャンムン」の最後のnに「イ」がついて「チャンムニ」となりますね。
「プニ」の名前を「プナ」と呼びかけ、「プン」を根幹とするのは、単にそれがパッチムのある言葉だからです。愛称として呼びたいわけです、「庄吉」を「庄ちゃん」と呼ぶように。「吉ちゃん」ではなく。
また、「モンイ」、「クンイ」ですが、これもプニと全く同じ構成の言葉(名詞)で、名前の根幹は「モン/몽」で、「モンという子」という意味で「モンイ」になっているわけです。
「モンア」と呼びかけているのですが、その速度が速すぎて「モナ」と聞こえているかと思います。
「モンイヤ」という呼びかけも、早すぎて「モニヤ」と聞こえるかもしれませんが、モン自体はnではなくngのパッチムです。
さて、タンセですが、これはここまでの剣の達人がいかにも百姓の名前、素朴な名前をしているということで笑ったという演出でしょうね。
タンセという名前がこの時代のスタンダードな百姓の名前だったのかは、私にはわかりません。
以上です。
お知りになりたかったことへの回答になっていれば幸いです。
ありがとうございました。
よろしければ、またいつでも遊びにいらしてくださいませ。(^-^)
コメントを残す