みなさま、こんにちは。

関東地方、台風が過ぎて以降突然涼しくなりましたね。
みなさまもお風邪などひいていらっしゃいませんか?
私も鼻をクシュクシュさせています。
猛烈に暑かった夏が突然こんな風に終わってしまうと、勝手なものでなんだか寂しく感じますね。

さて、今日は『姫の男/王女の男』前後の歴史背景について書いてみようと思います。

私、先日アップした記事「『姫の男/王女の男』にはまっています」で、『姫の男/王女の男』の題材となった史実を事実誤認していたようです。
スヤン大君(のちの世祖王)の孫娘と、スヤン大君に殺された元老大臣キム・ジョンソの孫がのちに結婚したと野史(民間で編集した歴史書のことです)に記されていると記事に書いたのですが、実際はスヤン大君の娘とキム・ジョンソの孫が結婚した(らしい)、でした。
改めてKBSの公式サイトを読んでいて気づきました。ごめんなさい。

ドラマの中ではスヤン大君には娘が二人います。長女のセリョンと次女のセジョン。
でも実際に残されている歴史書に登場する世祖(セジョ)王の姫の名はウィスク姫といい、いくつかの文献ではウィスク姫は次女と記されているそうです。
中には長女と書いてあるものもあるそうなのですが、長女という書き方から他にも娘がいたものと推測されるのだそう。

他にも娘がいたと思われるのに、その娘の名前が文献に出てこなければ、確かに想像力を掻き立てられますよね。

『姫の男/王女の男』のストーリーは、1453年にスヤン大君が甥の端宗(タンジョン)王から王位を奪おうと端宗王の強力な後ろ盾であった左議政(この時代の最高官僚の役職名です)のキム・ジョンソをはじめとした勢力を数十人も殺害した「癸酉靖難(ケユチョンナン)」と名付けられた歴史上の政変に由来しています。
キム・ジョンソらを殺した後、2年後の1455年にとうとうスヤン大君は端宗に王位を移譲させて世祖王となり、以降1468年まで在位するのですが、無理に王位についた課程で周辺官僚の力を強大にさせ、執権末期には官僚のコントロールが非常に難しい状況にあったとされています。

ドラマでは20話で長男が喀血し、母方に預けられていた次男が宮殿に呼ばれる場面があるのですが、実際の史実としても長男は20歳で死に、次男が第8代王・睿宗(イェジョン)として王位に就きます。
ところがこのスヤンの次男イェジョン王は在任13ヶ月で死んでしまうんですよね。

いまだにイェジョン王毒殺説が語られているそうなのですが、遺体に毒物反応があったと記された文献があるそうです。また、世祖王執権後期より権力を持ちすぎていた大臣たちを抑えようとイェジョン王が、即位後大胆にこの者たちを排し、新しい大臣を登用したことで恨みを買ったとされ、これらがこの毒殺説に信憑性を与えているようです。

歴史的な事実を念頭においてもう一度ドラマを見てみると、なるほどあの極悪人の取り巻きども、確かにスヤンが死んだ後そういうことをしそうだなと思えてきます。(笑)

ちなみにそのあと王位に就いたのは、世祖王の孫、成宗(ソンジョン)です。ソンジョン王は在位13ヶ月で死んだイェジョン王の息子ではなく、イェジョン王の兄の息子です。
若くして死んだスヤンの長男は、子どもをもうけていたのですね。

さて、『姫の男/王女の男』。
セリョンが宮殿を出て寺に身を寄せたり、以前の回で先代の王が危篤に陥った時もセリョンとセリョンの母が寺で五体投地をしながらお祈りを捧げるシーンなど、仏教を信仰している様が描かれています。
これ、実は朝鮮半島の仏教史という観点からみると、ちょっと面白いんですよね。

先日もちょっと触れましたが、4世紀半ばから後半にかけ、高句麗の時代には朝鮮半島に仏教が伝わっており、以降朝鮮王朝が成立するまで千年間仏教を半島全体に渡って信仰してきた経緯があるのですが、高麗の武将だった李成桂が高麗王朝にクーデターを起こして1393年に朝鮮王朝を打ち立てて以来、高麗が仏教を信仰していたこともあり、仏教を弾圧して儒教を重用する政策を取るようになります。

そのため、朝鮮王朝と言えば儒教、儒教と言えば朝鮮王朝というくらい王朝と儒教の結びつきは強いのですが、世祖の父で第4代王の世宗も執権後期には仏教を重んじるようになったり、世祖も自分に反対する勢力に儒学者が多かったことなどもあり、逆に仏教の復興に力を注ぎました。

つまり、朝鮮王朝の中で仏教信仰が描かれるのは、実はこの時代ならではのことなんですよね。

それだけではなく、男たちがいくら急に「これからは儒学だ」と言っても、女性たち、つまり妻たちは相変わらず仏様を信じていたとされており、その意味でもセリョンやセリョンの母が仏教に帰依している姿を描くのは妥当なのです。

世祖が仏教復興に力を入れたのも、儒学者への対抗だけではなく、多くの命を奪ったことへの償いという複合的な理由があったと解釈されているようです。
ドラマの中でもちょうど20話の衝撃のラストシーンの直前、「父上の業を自分の子どもが引き受けることになるまで、自分のしていることが分かりませんか?」とセリョンが詰め寄るシーンがありました。
スヤンはわなわなと拳を握り、「お前はシン判官の奴卑になれ」ととんでもセリフを言い放ち視聴者を恐怖のどん底に陥れたわけですが(笑)、これなども「子どもが引き受ける業」が長男の病気を指しているのはドラマ上明らかです。

他の部分は私に知識がないので分からないのですが、仏教に関する部分はしっかり時代考証を踏まえているので、私はマニアックな鑑賞も楽しんでいます。

肝心の『姫の男/王女の男』の元ネタは、『金渓筆談(クムゲピルダム)』や『端宗実録(タンジョンシルロク)』 などの野史にあります。

スヤンの娘が「キム・ジョンソを殺してはならない」と父に歯向かい、スヤンは「ならばお前の首から斬ろう」と応じ、忠清南道のコンジュにあるトンハク寺に娘を追いやった、などの内容が民間によって伝承されたこれら文献に残されているようです。
またスヤンの魔の手をかろうじて逃れてきたキム・ジョンソの孫をスヤンの娘が匿ったことで、二人は夫婦になったと記述されているそうです。
事実なら、確かにロマンチックです。悲しいロマンではありますが。

あくまでも民間に伝わる一種の物語のようなものですが、複数の書物に類似した記述があるそうなので、もしかしたらそれなりの信憑性があるのかもしれませんね。

また、自分が王に就くために数え12歳という年端もいかない幼さで即位した実の甥を追い落とした事実、そのために王の脇を固めていた大臣たちをほぼ皆殺しにした残虐さ、こうしたことを見聞きしてきた人々が、少しでも救いのある話をせめて物語の中に残そうとしたとしても、私は頷ける気がします。
そんな話の一つでもないと、いかにも気が滅入る時代だったのでしょう。

最後に仏教のその後を付け加えますと、スヤンの孫の成宗王は、またしても儒教を重んじ仏教を弾圧します。成宗王は官僚のバランスを非常にうまく取り、おじいさんの頃(つまりは世祖)に抑圧されていた儒学者をうまく重用することで新しい秩序を築いたようです。

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おじいさん世代がつくった悪しき因縁を孫世代が引き受けて処理する。
それ自体は現代にも通じるところがあるなと思うのですが、果たして朝鮮半島で仏教を弾圧し儒教を重んじたことは後世にとって良かったのか、ちょっと考えてしまいます。
仏教がいいというよりも、儒教による男尊女卑を長らく続けたということに対して。
これはどう考えても褒められるものではありませんから。