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21 2016年3月
みなさま、こんにちは。
今日は『六龍が飛ぶ』47話と48話を簡単にまとめておきます。
『六龍が飛ぶ』47話は、予想されていた悲劇がとうとう起きてしまう回でした。
結論から先に言うと、ヨニが命を失い、チョン・ドジョンがイ・バンウォンに殺される回です。
まずは、ヨニ。
ヨニはタンセのもとに走って引き返し、自分がもらったお守りをタンセに返します。
「戻ってきた時は、戻ってきた時のこととして、今も大事だから」と言いながら。
自分を抱きしめたヨニに驚きつつも、ヨニの思いを確認し、必ず生きて帰ると約束するタンセでしたが。
分かれた直後、ヨニはチョ・マルセンにタンセをおびき出すための人質として捕らえられ、ヨニを護衛していたファサダンのピウォルも殺されます。
ヨニが囚われていることをチョンニョン和尚から聞かされたタンセは一目散に救出に向かうのですが、自分はタンセを足止めするためのおとりで本当に危ないのはチョン・ドジョンなので、今すぐ戻って欲しいと懇願するヨニ。
チョ・マルセンは、自分も出来ればヨニを殺したくないので、そのままもう少しここにいてくれとヨニに刀を向けたまま言い、タンセは刀を捨てます。
ところが、このままではチョン・ドジョンがバンウォンに殺されてしまうと焦ったヨニは、タンセに微笑みかけると自ら向けられた刃で首を切ってしまい・・・・・・。
瀕死のヨニを抱き呆然とするタンセに、ヨニは懸命に伝えます。
「あなたのせいじゃない。覚えておいて。あなたのせいじゃない。助けられなかったんじゃない。私の夢を守ってくれればいいから」
チョン・ドジョンを守って欲しいという言葉を最後に息絶えてしまうヨニ。
タンセは泣き崩れます。
この展開は『根の深い木』でムヒュルの回想として描かれていたそうなので、くるとは思っていましたが、本当にきてしまいました。
視聴者この先放心状態に陥ります。
バンウォンはチョン・ドジョンを謀反者にでっち上げたハリュン作成の文書をもとに、シム・ヒョセン、チョン・ドジョン、ナム・ウン殺しに取り掛かります。
王族に危害を与えようとしたために成敗されたと言うのが、でっち上げた罪状の中身でした。
兵が迫るとネズミのように逃げ出すものの、最後にはバンウォンに跪き、バンウォンに強く叱咤されたのちに殺されると記すハリュン。
プニとムヒュルの祖母の会話を聞き、タンセが心配でチョン・ドジョンにバンウォンが挙兵したようだとカップニが知らせたため、チョン・ドジョンとナム・ウンはバンウォンの手を逃れて成均館に一旦隠れ。追っ手が来る前に二手に分かれて逃げ、落ち合うことにします。
二度と会えないかもしれないという思いに、ナム・ウンに「よく付いてきてくれた」と礼を言うチョン・ドジョン。ナム・ウンもチョン・ドジョンに従うことが出来たことに感謝しつつ、別れを告げ。
ところがカップニとチルボンおじさんの会話を聞いていたウ・ハクチュがバンウォンに告げ口したため、チョン・ドジョンの居所はバレてしまい。
バンウォンは率いてきた兵に命じ、大声で「チョン・ドジョン、出てこい!」と叫びます。チョン・ドジョンが逃げ出してくるのを期待しつつ。
ところが『静かにしろ。すぐ出るから』と手紙を寄越したチョン・ドジョン。チョン・ドジョンは死を覚悟し、班村にいる弟宛ての遺言を書いていたのでした。
姿を現したチョン・ドジョンは「少し歩こう」とバンウォンを誘い、なぜ逃げなかったのかと問うバンウォンに「そんな必要はない。私とお前が作ろうとしている国は、実際同じものだから」と余裕の笑み。
自分は遼東征伐はしないと言うバンウォンにも「それも生き残った者が決めることだ。勝者が自ら考えて悩み、時代を切り開いていかねばらぬ。死者が時代を率いてはならぬだろう?」と最後まで教えを授けます。
「大儀だなぁ、バンウォンよ」と声をかけるチョン・ドジョンにとうとう刀を突き立てるバンウォン。
チョン・ドジョンは膝をついたまま、息絶えます。
「ネズミのように逃げたという箇所は外せ」と命じ、チョン・ドジョンと書かれた紙を燃やすバンウォン。
これが史実の「王子の乱」ですね。
正直ヨニを殺した時点で視聴者の心は完全にドラマから離れているのですが、進む48話。
ちなみに生きてましたね、チョク・サグァン。
倒れた場面が描かれなかったので、生きてるだろうとは思っていましたが。
というわけで48話は戻ってきたタンセ/イ・バンジとムヒュルの対決と、「王子の乱」のもう一幕、イ・バンウォンの王世子殺しが描かれます。
まずはバンジとムヒュル。
チョン・ドジョンを救いにいこうとするバンジを阻みながら、ムヒュルはヨニをおとりにする案は自分が出したと話します。
「お前がヨニを殺したのか」との言葉に固まるムヒュル。
刀を交える二人をプニと祖母がそれぞれ引きとめ、一旦は決闘棚上げに。
プニは戦いをやめさせるためにバンウォンが三峯を殺したことをタンセに告げます。
「負けたのよ。もう元には戻らないの! だからお兄ちゃんも逃げて! 百姓は生き残ることが勝つことなのよ。お願い!」
一方ムヒュルの祖母も、ムヒュルを泣きながら止めます。
「婆ちゃんが死ぬところを見たいのかい? バンジを殺すんなら、婆ちゃんを殺してからにしな!」
ムヒュルは一人になると、「あとどれくらい返り血を浴びたら、心が強くなるのだろう」と苦悩していますが、正直視聴者には知ったことではありません。
一方バンウォンの義父はチョ・ジュンを説得し、チョン・ドジョンが謀議し王子の命を危うくしたという内容の書を王に書くよう迫り。
おりしもミン・ダギョンが現れ、チョン・ドジョンが殺されたことが伝えられます。
一方イ・ジランとイ・ソンゲの耳にもチョン・ドジョン殺しの一件が伝わり、イ・ソンゲはすぐバンウォンにくるよう命じますが、チョ・ジュンはイ・ジランがこちら側に説得されるまでは絶対に行ってはならないと進言。
バンウォンは、「父を諦めさせる」と弟のところに出向き、弟を容赦なく殺すという蛮行に及びます。
「悪いところがあれば直すので許して欲しい」と泣きじゃくる幼い弟に「誰かが言っていた。罪と死には、何の関係もないと」と言いながら。
その様子をハリュンらと見守るムヒュルです。
この「罪と死には何の関係もない」という台詞は、ヨニがかつて言った台詞ですよね。
ああ。改めてバンウォンにむかっ腹が。
冷たくなったヨニの亡骸を埋めにいくタンセとプニ。
タンセは心の中でヨニに語りかけます。
「すまない、ヨニ。気持ちを伝えることも出来なかった。‘愛してる。一緒に暮らそう。お前が必要だ’って、言うべきだったんだ」
一方プニも心の中で「オンニ、本当にごめんなさい。そしてありがとう。安らかに」と言葉をかけ。
「ごめんなさい、ありがとう」って。それだけですか。
と、プニに完全に八つ当たりモードですが。(笑)
バンウォンはイ・ジランを訪ね、もしイ・ジランが説得に応じてくれず、父が遼東征伐を決行しようとしたら、自分が何をしでかすか分からないかと迫り。
父をも殺すつもりであることを悟ったイ・ジランは驚愕します。
どこまでやるつもりですか、バンウォン。
もはやただの人殺しなんですが。
イ・ソンゲは王世子バンソクが殺されたことをチョ・ジュンに知らされ怒りを爆発させます。やってきたバンウォンを殺そうと刃を向け。
「この犬や豚にも劣る奴め。犬や豚でも自分の兄弟や師匠を殺しはせん!」
「チョン・ドジョンが国政を独占すべく理にそぐわない幼い王世子を立て、王子をみな殺そうとしたためです」
「わしが建てた国だ! お前がなぜ大君になれたと思っている? なぜお前が王になろうと夢見れたのだ? わしが50年間、東西南北を奔走し倭寇を防いできたからだ! わしの名声、わしの力、わしを信頼する百姓の力ゆえだ。そんなわしの犠牲、三峯の犠牲なく、お前がそんな夢など見れると思うか? だから、わしの後を次ぐ王世子もわしが決めるのが当然の理だ! それを、父親のものを、弟のものを盗むだと? これは簒奪であり謀反だ!」
「ええ、父上の仰ることが全て正しいです。よって私を殺せるのも、父上以外にはいません。父上がどうしても私を許せず、殺そうとなさるなら、それも私は受け入れられます。ええ、私はむしろ、死を受け入れられます。死んだほうが、この苦痛も終わるでしょう。殺してください!」
「どこまで虚勢を張るのか? お前を殺せないとでも思うのか?」
イ・ソンゲが刀を振り下ろそうとした瞬間、イ・ジランが割り込み、イ・ソンゲを説得します。
息子を一人ずつ全員殺すつもりか、と。
こうしてイ・ソンゲは失意のもとハムジュに戻ります。玉じを置いて。
今回の件で唯一血塗られていない次男に、まずは王座に付くよう伝えるバンウォン。これは全て計算ずくのことでした。
そして一人になるとバンウォンはチョン・ドジョンと弟を殺した手を震わせるのですが。
その震える手をヨンギュの幻が出てきて止めるんですよね。
「なんでまた自分で手を下したんです? 下の者にやらせればいいのに」と言うヨンギュの幻に「だって兄貴がいないから」と答えるバンウォン。
「ムヒュルにやらせたら、あいつも俺の傍からいなくなりそうで」と泣くバンウォンに、「ここまできたのだから振り返らずに行け」と慰めるヨンギュの幻です。
ってなんだこのシーンも!
知るかっ!(怒!)
と、もう一ミリもバンウォンへの同情が残っていない視聴者。
っていうかこのシーン、視聴者を怒らせるために作られたとしか思えないんですが。
ここにきてバンウォン悔恨シーンとか挟まれても、もう心がまったく付いていけません。
一方、怪我を負い逃げていたナム・ウンを見つけたイ・シンジョク。
ナム・ウンは自分の首を持ってバンウォンのところへ行き、信用させろといいます。いつか、「密本」の仲間たちと理想を実現させて欲しいと。
ナム・ウンの言葉どおり、バンウォンに遺体を持っていくイ・シンジョク。一旦はバンウォンの懐に入るのに成功します。
イ・シンジョクはこのあと班村に向かい、チョン・ドジョンたちを闘争させたとしてカップニに暴行を加え。
一方タンセは山に打ち捨てられたままだというチョン・ドジョンの遺体を埋めるため一人出向き、チョン・ドジョンの弟チョン・ドグァンに出会います。チョン・ドグァンはチョン・ドジョンからの遺言を手にしたパルボンおじさんと会う約束をしていたのでした。
ところがそこにまた官軍が現れ。
チョン・ドグァンは馬で逃げるものの、タンセに遺言を託しタンセを庇ったパルボンおじさんは、弓に討たれて亡くなってしまいます。
次々と罪のない民がひどい目に・・・・・・。(涙)
怪我を負い、母ヨニャンの看病で目覚めたタンセ。
冷たい息子にヨニャンは「死んだと聞かされていた」と初めて口にします。キル・ソンミも「生きていると知っていれば、また逃げただろう」と口添えし。
それでもその場を去るタンセ。
タンセは母に、バンウォンが本当に「無名/ムミョン」と組むと思っているのかとの警告も忘れませんでした。
タンセはチョン・ドジョンの遺言を開いてみます。
そこには「生き残った者が自ら切り開け」と書いてあり。また、バンジには自分のために闘ったり、命を粗末にするような真似をしないよう伝えてほしいとも。
タンセは心の中でチョン・ドジョンに守れなかったことを詫びます。また、最後の遺言も守れないと。
バンウォンは「土地調査」をもう一度やり、「無名/ムミョン」を討つつもりであるとハリュンに告げます。勿論、私兵もそのままにはしておかないとバンウォン。つまり、反乱を可能にする兄弟の私兵を取り潰しにするという意味です。
同じ頃、母の元に戻り、バンウォンを殺すための場を設けて欲しいと願い出るバンジで、48話は終わります。
主役がこんなに「多種多様な立場」でいいんだろうかと、最後の最後に来てブーイングの視聴者。
少なくとも既にバンウォンに感情移入することは難しい展開になっています。
チョン・ドジョンは最後に、自分がやってもバンウォンがやっても、目指すところは同じ国だと言いましたが、その言葉にも到底同意できませんよね。
「全然違うよ!怒!」みたいな。(笑)
あの素敵だったプニが、なんだか保身の女王みたいになってるのもどういうことなんでしょう。
「百姓は生き残ることこそが勝ち」という言葉には異論はないのですが、「生き残ってなにやるか」があってから言って欲しいですよね。結局罪のないパルボンおじさんが巻き添えて殺されてしまいました。
このところ、総選挙を控えて現実の政治でもうんざりすることがてんこ盛りなので、為政者とバンウォンがかぶって憎さが2倍増しくらいにはなっております。
バンウォンファンのみなさまには、平にお許しのほどを。(笑)
さてさて、ここまで頑張ってご覧になってきたみなさま。とうとうあと残り2話まできました。
長かったですよね。(笑)
すごくいい展開もたくさんありつつ、中盤以降は気の重い展開になり、47話以降は完全な消化試合モードと化しておりますが、ここまできたからには私も最後まで完走しよう思います。
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7 Responses for "『六龍が飛ぶ』 第47話 第48話"
白香夏さま、こんにちは。
嗚呼、この号泣と怒り爆発の47、48話をレビューされたご苦労に、心のコシヒカリ1年分を贈呈したいです。
「心の」は要りません?
さて、いや、もう、あの、私、本当にまずいです。
重度の嫌アイツ視聴者へと一気に針が振り切れちゃって、全然関係ないユ・アインさんに申し訳ないほど、嫌悪アンド軽蔑しちゃってます。
(右に倣って、今日ばかりはアイツ呼ばわりを。)
父親の前で震えつつ屁理屈を並べ立てても、ブルブルしながらオトモダチの幻影ヨンギュ君に慰められても、「だから何?」でした。
あの47話は、避けられない苦渋の選択でも何でもなく、単に醜悪な権力欲クーデターで、いくらでも避けられたし、避けるべきものだったじゃないですか。
イ・ソンゲが高麗王とチェ・ヨンに背き、新国家の王を遂に決断した時とは、全然違う低レベルの選択。
だからブルブルされても、「あんたが選んだ事じゃん。あんたはいいよね。ブルブル震えたり、父親にビビりながら屁理屈言えたり、苦悩の真似事ができてさ。そんなの生きてるから出来ることじゃん。あんたのせいで死んだ人は選択も苦悩もできないよ」としか思えず……。
48話の父子対峙シーン。少なくとも今作で描いたイ・ソンゲなら、ジラン兄貴の一言がなければ、アイツを斬ってた、と解釈しました。(この解釈でいいのかしら、製作陣さん?)
民を裏切ったアイツが、民あっての国っていうイ・ソンゲの信念によって命拾いするんですから、皮肉すぎて、余計にアイツへの軽蔑が募ってしまいました。
この刀を下ろした理由、私はありがちな「結局は親子の情」にしなかったことに、地味に、ほんのごくわずかだけ、救われました。
いえ、救われてませんね。やっばり。全然。
怒りのあまり「斬ってくれ!切り刻め!」と思っていた私でも、刀を下ろすしかないイ・ソンゲの心中に共感せざるをえなかった、くらいですね。救われてません。
ところで、あの幻影ヨンギュ君の場面には、私も違和感ありありでした。
原因は演出か演技か分かりませんが、もっとアイツのみじめさ、見苦しさを生々しく強調してほしくて。
あの演出と演技だと、「僕は強がってるけど、実は孤独で寂しがり屋なの」と言わんばかりで、変に綺麗すぎ、「まさかアイツへ同情しろっていうの?」と勘繰りそうでした。
私個人は、脚本家たち、特にパク・サンヨン作家について、「根」以外にも「JSA」「華麗なる休暇」等々を通じ、“権力が民をふみにじること”への批判視点をガチッと持った人だと割合信じているので、書き手があんな半端にぬるいシーンを狙っていたとは考えづらく。
でも、脚本家への贔屓目、イコール、演出や役者さんへの言いがかりの可能性も大ですね。
ともかく、あのシーンが、同情を誘うつもりに見せかけて余計に怒りを呼び込むという「ひねりすぎてわかりにくいよ!」って効果を狙っているなら、針が振り切れた私みたいな視聴者には、効果絶大ではありました。
余計憤慨させていただきましたので。
実は私、一大決心して(大袈裟)、1カ月ほど前から少しずつ再視聴してるんです。
再50話なんて血迷ったとしか思えませんが、チョン・モンジュの死を機に、無性に見直したくなり、迷った末に無謀にも。
以来、時間を見つけて1話ずつ、昨日でやっと18話まで来まして。
振り返ると、後々繰り返されるテーマが、序盤に一気に提示されてたんですね。
「大義と犠牲」「孟子の教えと現実」「強者と弱者」「罪と死」「心の虫」「善と悪」等々……。
タンセ×ヨニの場面は、もう涙なくして再視聴できやしません。
初見のときより、切なくなるのはどういうわけでしょう。
そこに三峰が絡むと、また涙追加で。
結末を知ってて見るのと、How?Why?の過程と結末を目撃してから見るのと、胸に迫るものが格段に違うものですね。
序盤のタンセは「三峰も、三峰が目指すものも信じない」と言い張り、ヨニもまた、「三峰は信じてない。三峰の理想に懸けただけ」と。
不信の強さは、経験した絶望の深さの裏返しで、むしろ彼ら二人は、信じられるなら信じたかったんですよね、きっと。(泣)
そして、最後は三峰を信じていたから、あんなことになったんでしょうか。(泣)
「信じない」だった二人が、三峰の最期、彼を守るために自分の命と夢を犠牲にしたり、打ち捨てられた彼の遺体を探し出し、外に出た手を筵の中に入れてあげたりするんだって事が脳裏をかすめずにはいられず……うぅぅぅ……。
見直していて思ったのですが、三峰とタンセとヨニの三人は「同じ」なんですね。
子供を守れなかった三峰も、ヨニを守れなかったタンセも、「子供であり女だった」ヨニも、自ら乱世の弱者、犠牲者で……。
って、そんなことに思いを馳せると、ますますアイツに怒りが。
アイツが「みんなの夢を叶えるのが俺の夢」と、のたまっていたことを、以前思い出されてましたよね。
そのお話に誘発されて、私も思い出したんです。
そんなアイツにタンセが、「お前なら(夢を実現)できると思う」と言っていたことを。
それでまたまた憤って、もはや怒りの自家中毒患者になっちゃってます。
大丈夫でしょうか、立ち直れるでしょうか、私?
今日はまもなく49話の放送ですね。
泣いても笑っても、いえ、全然笑わないまま泣き続けても、50話という信じがたい長旅が終わるのは、感慨深いものがあります。
(懲りずに2週目の長旅を実行中の身で、感慨深いも何も、という気がしないでもないですが。)
「根」の始まりへつなげるしかないという意味での“制約”もあるでしょうが、本来の文献では、開国から六代目までの王だけ?を指すらしい「六龍が飛ぶ」の六龍に、庶民たちや逆賊扱いの三峰を入れた意味を、しっかり残した最終回であってほしいものです。
しまうまさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
そうなんですよね。
イ・ソンゲ。
書いてくださったとおり、実はイ・ジランは「子どもを全部殺す気か?」のあとは「子どもを全部殺した王に、百姓が従うと思うのか?兄貴の子ども、兄貴が建てた国ではないか」と続けてるんですよね。
私も、この「民百姓」のキーワードが出てこなければ、イ・ソンゲはバンウォンを斬っていると思います。
その意味ではイ・ソンゲのつらさが凝縮されたシーンでもあるんですよね。
私もヨンギュの幻影登場にあまりにも頭にきて、折れた心を持ち直したのですが(笑)、このシーンは本当に分からないです。
誰も同情できると思えないのですが。
バンウォンの孤独を浮き立たせたのだと思いますが、自分から孤独に頭突っ込んでいってしまっているので、「自己憐憫の情だけが深い人」みたいに映ってしまいます。
しかし、これを見直すと、相当きそうです。
特に、書いてくださったとおり、ヨニやタンセの「信じない」から「信じる」への転換。
まったく仰るとおりじゃないですか。
き、きつい・・・。見直すのきついです。つらいです。
しかし、脚本のパク・サンヨンさん。「JSA」と「華麗なる休暇」の原作者だったのですね!
うわー、それは。カラーのはっきりある方ですね。
うーん、となると今回の六龍は一体、何カラーなんでしょう??
なんだかもう、ぐちゃぐちゃしてしまってずっと見続けてきたわりに混乱をきたしておりますが。
ちょっと一拍おかないと整理できない感じです、確かに。
見直すのが一番かもしれません。(笑)
もう今日と明日で終わりですね。
視聴者の頭は混乱したままですが、最後2回がどんな有意味なものになるのやら。
私も確かめてきます。
ありがとうございました。(^_^)
こんにちは。
最後まで見て1週間・・・やっと少し立ち直って書き込みいたします。
私はKNTVで日本語字幕がついているものを見直していますが、今日9話なんですね。「いいよね、この頃はまだ前向きで」とついつい思ってしまいます。
泣いてるんじゃないよイ・バンウォン!
ムヒュルそれでいいのか!
プニなんだそれは?
といちいち言わずにいられない47話と48話でした。
この時代に民衆が力を持つには、男性ならタンセやムヒュルのように剣で身を立てるという道がありますよね。でも女性は婚姻以外の道はそうはなさそうなので、民衆代表のプニをどう描くかを楽しみにしていたんですが、最後のほうのプニは、いわば「治外法権」のように思えてしまいます。最初のほうは自分の力で切り開いていく感じだったので良かったんだけど。おまけに感情線もつながらなくて、見ていて納得できないのが残念です。人としてどうなんだ? と共感できません~。
そして私もヨンギュのシーンには憤りました! 「ヒョンがいないからじゃないか」と甘えてるんじゃない!
韓国のファンの方はヨンギュが出てきたことにかなり喜んでましたから、人気者なので出したのかしら、という感もなきにしもあらずです。
タンセとヨニのシーンはもう何も言えません。三峰先生を救えなかったことも。
それにしても、みんなタンセに「生きろ」と言いますよね・・・。それはそれで酷(涙)。
eripodさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
私も最終回、観ました。
それはまたそれとしてあとで書くつもりですが、見終えるともう47話とか、遠い遠い昔のようですね。(笑)
KNTVでは9話あたりを放送中なのですか。
それはそれは、これから盛り上がるところですね。
観終えてしまった私たちには、さらに遠い過去のようですが・・・。(笑)
ヨンギュのファンの方々があの幻登場シーンに喜ばれたとのことですが、イ・バンウォンがどのような経緯で王座についたかは知られた話な上、どうしても冷血なイメージがあるので、「思ったより悪人じゃない」という反応を制作側の意図通り引き出せているということなんでしょうね。
ただ、タンセ&ヨニに思い入れのある視聴者にとっては、確実に怒りに油を注いだかと・・・。(笑)
自分が散々しでかしておいて泣き言言われても、同情できませんよね。
ただ、あそこまでの状況になってもバンウォンが心配しているのは「自分のこと」というのを明確に描いたシーンだったと思います。
誰かを手にかけたあと、常に殺した相手への申し訳なさより自己憐憫が先立つバンウォンでしたが、あの幻シーンは決定的にそういう人間だと印象付けました。キャラ設定の一貫性は、バンウォンにおいてはすごいと思います。
見ようによってはバンウォンを激しくディスったシーンにも思えるのですが、勿論そんな意図ではないのでしょう。(笑)
分かってはいたことですが、やはり主役が複数いると難しいですね。
誰の立場で物事を見るかで、感想がまったく変わるドラマだと改めて思いました。
ありがとうございました。(^_^)
1年半ほど遅れてgyaoで試聴しています(すみません)。
朝鮮の歴史は詳しくありませんが、これはフィクションですし、韓国歴史ドラマにあまりはまり込み過ぎるのはどうでしょうか?
フィクションを真実と信じてしまう危険がなきにしもあらず。
少し引いて見たほうがいいのでは?
わたしはふーん、そうなんだ、と見ていましたが、ここ3話ほどは逆に興味深いです。
イバンウォンの変節、師匠、兄弟殺害など、俳優ユアインの見せ場、演じがいがあるのではと感じています。
↑のハルです。
初めまして。ご挨拶もせずに失礼しました。
韓国ドラマはご多分に漏れずチャングム、イサンから見ていますが、その他の歴史物はあまり見ていません。
根の深い木は見ました。
先日1,2話を再び見たら、49話ラストのムヒュルが根の…太宗と世子の対立のシーンにかぶっており、世子演じるソンジュンギから聞き慣れた名前が次々と出てきて、そうだったのか、でした。
歴史ドラマや小説が作家の想像の産物であるのは、日本でも変わりないところ。
チョンドジョンがどんな人物かも知らない通りすがりですので、お聞き捨て下さいませ。
ハルさま
はじめまして。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
『チャングム』や『イサン』もご覧になられたのですね。
私は普段ほとんど時代劇(歴史劇)を見ないので、『チャングム』も中盤までは飛ばし飛ばし、『イサン』は見ておりません。
話数の長いドラマを見続けることがなかなか出来ないので。(笑)
そんな中で珍しく50話もあるのに見届けたのがこの『六龍が飛ぶ』でした。
歴史ドラマがフィクションであるのは、当然みなさん前提でご覧になられていると思うのですが、フィクションの世界観を前提にその中で遊ぶ、もしああだったら、こうだったらと想像するのが楽しいのですよね。
新しい人物を想像で加えたりはいいですが、明らかに意図をもって史実を何かおかしな方向に曲げたりだとかは、常に見る側が気を付けるべきことですよね。
私も日本の大河ドラマで、この人物をこのように英雄的に描くのはあまりにナンセンスではないかと思うことが多々あります。
ドラマにせよ映画にせよ、歴史ものは今に置き換えて何かを伝えたいからこそ創造するものでもあり、見る側もそれを求めて見ながら解釈してもいるので、結局のところその伝えたいところのメッセージの質が問われるべき点なのだろうと思っています。
ユ・アインさんの演技は、本当に良かったですよね。
全50話の中で最も変化の多い役柄を、文句つけがたく演じていて素晴らしかったです。
ありがとうございました。
よろしければ、またいつでも遊びにいらしてくださいませ。(^-^)
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