4 2026年6月
みなさま、こんにちは。
気付けば6月。早くも今年の後半戦に突入しましたが、いかがお過ごしでしょうか。
私は半年以上にわたって取り組んでいた『未知のソウル 脚本集』の日本語版が5月末にようやく印刷所に入り、一息だけ付くつもりがすっかり気が抜けてしまっています。(笑)
今日は、いつにも増して独り言になりそうな予感がしながら、このところぼんやり感じていたことなどを綴ってみようと思います。
まず、タイトルの「モジャムサ」。
いきなり暗号チックでごめんなさい。
これは、韓国ドラマのタイトルを音節ごとに短縮したものです。
Netflixでも配信している『모두가 자기 무가치함과 싸우고 있다/モドゥガ チャギ ムガチハムグァ サウゴ イッタ』。
……あれ、「モチャムサ」じゃん。
いえ、合ってるんです。韓国語は文節の冒頭以外にくる平音は濁音化する発音上の法則があるため「モ」の次は「ジャ」で正解。
あれ、書き始めから今から私が書こうとしていることにまた関連してる……。
気が抜けたまま書き始めているので、本当に独り言になりそうです。予め、ご容赦ください。(笑)
先日来お知らせもさせていただいております通り、もう今月ですね、もうすぐパク・ボヨンさんとジニョンさん主演ドラマ『未知のソウル』脚本集の日本語版が発刊されます。
Amazonや楽天ブックス、HMV&BOOKSなどのオンライン書店のほか、ヨドバシカメラドットコムでもご予約いただけるようです。
出版元でもご予約いただけますので、是非ドラマファンの皆さまにお読みいただけましたら、訳者としてこの上なく幸いに存じます。
勿論、書店でもお取り寄せ可能かと思います。
出版元のウェブサイトを改めてご紹介させて頂きます。
リンクは、コチラです。
ドラマの脚本集といえば、日本ではあまりジャンルとして確立された感はありませんが、NHKの朝ドラ『虎に翼』が限定版のシナリオ集を出され、好評を博していましたよね。
韓国では、OST以外にドラマ関連本もジャンルとして確立されており、様々なドラマのフォトエッセイや脚本集が出ています。
シンプルにオリジナルの台本が掲載されているだけのものもあれば、今回私が翻訳した『未知のソウル』のように脚本家が自らシーンの意図を解説し、幻のシーン、撮ったけど放送されなかったシーン、俳優さんたちとの会話、作中で使われた小道具としての文献など、ドラマをディープに味わうための「裏話」情報もたっぷり収録しているようなものもあります。
『未知のソウル』のファンの方でしたら、ト書きから俳優たちの台詞や演技に秘められた意図をより深く知り、大事なシーンで交わされた脚本家と俳優とのやり取りなど、様々な面で楽しんでいただけると思いますので、是非図書館などでもお読みいただけましたら嬉しいです。図書館へのリクエストも、よろしければ是非お願いいたします。
と、大事なお知らせとお願いを、まずはさせていただき。(笑)
夢の中でも原稿の赤入れをしていたほどなので、ドラマを見るゆとりなど全くなかったのですが。
タイトルの「モジャムサ」。
JTBCのドラマで、韓国での放送は、私が最後の追い込みをしている5月24日に最終回を迎えました。
ドラマ自体は見ていないのですが、周囲の友人・知人や流れてくるSNSのポストが「モジャムサ」一色なので、ついつい活字を読んでしまい、短いクリップ動画も見ているうちに、見てもいないドラマの内容を最初から最後までほぼ知ることになってしまいました。
Netflixでの日本語タイトル『誰だって無価値な自分と闘っている』。
なんちゅうタイトル。(笑)
「みんなが」でなく「誰だって」と訳されたところがいいですね。
言葉選びのこだわり一つで、受ける印象変わります。
このドラマは『マイ・ディア・ミスター~私のおじさん~』、『私の解放日誌』を書かれた脚本家、パク・ヘヨンさんの作品。

回を追うごとにドラマを見終えた韓国の人たちの感想がSNSに増えていくのを目にしていたのですが。
アルゴリズムのせいなのか、圧倒的に書き手は40代、50代の印象。
伝わってくるんです、「かつて夢を見ていた人たち」であるということが。
「何者かになりたかった」人たちが、ドラマを見て黙っていられず、我がことのように感じて、何かを言わずにおれないのだな、ということが。
感想が続々上がってくる現象自体がドラマ以上に興味をそそり、すべからく長文のその感想をじっくり読み進むのを、ちょっと楽しみにしていたのですが。
感想読むだけで、切ない。
ドラマを見る前に、興奮気味の人々による解説とクリップ映像だけで最初から終わりまで内容をほぼ知ってしまったため、今後も観ないかもしれないのですが、ここまでドラマが人々の心、特にはかつて夢を胸に抱いていた多くの人々の心を揺さぶるのは、久しぶりに見る光景でした。それだけでも、このドラマがタダモノじゃないのはよく分かります。
ドラマを見た見ず知らずの大人たちの長い長い感想を丁寧に読み進みながら、その感想の述べ方に共通項があることに気づくのは、さほど難しいことではありませんでした。
「今の自分と折り合いをつけて生きている」というある種の「諦め」。
となると、私の脳裏にも否応なく様々な雑念が連想ゲームのように浮かんできてしまい。
私が「モジャムサを見た方々」の感想を読んで、このところずっと考えていることを少し今日は独り言として述べてみたいのですが。一番大きいのは、まさに私の仕事「翻訳」についてです。
Xに翻訳機能が搭載されて以来、少なくともX上では言葉の壁はなくなりました。
私自身も瞬時にどこの国で起きていることでも、些細な日常の心温まるエピソードから、政治のニュース、BTSの世界中のファンの感じ方まで、大まかに知ることができるようになりました。
ある意味完全に別世界です。
間違いなく、便利。
翻訳を生業としている私のような人間には、AIがなんでもそこそこ正確に翻訳してしまう状況は一ミリも嬉しくはないです。その一方で、こうして瞬時に誰もが「思いもよらないところに存在していた意味のある言葉」を見つけ、感動したり共有できたりすることには、一市民としては肯定的な意味の付与以外にしようがないという気持ちもあり。
今の現状を見つめ、抗いようのないこととして受け入れる以外に、私にできることなどないのです。
この感覚は、なんだか、あれに似ています。
韓国語の濁音半濁音問題。
かつて私がこのブログで笑い話として衝撃の「ゴン・サンウ事件」と命名したことがありますが(過去記事はコチラ)、私がもう一つ、抗いようもなくただただ諦めの境地で見つめ、受け入れなければならないと自分に言い聞かせているのが、それです。
韓国語は、外来語でない限り、文節の初めの音は濁りません。
日本語では濁音と半濁音がはっきり文字としても音としても区別されているため、かつては姓は濁らせない、つまり「ゴン・サンウ」はあり得ない、「ベ・ヨンジュン」もあり得ない。日本で語学としての朝鮮語・韓国語を学んだ人であれば当然、詰まるパッチム(子音)のあとにくる音は濁らないのが当たり前。当たり前すぎて言う必要がないくらいの常識でした。
ですが、第1次韓流ブーム以降、翻訳や韓国のエンタメのコンテンツ流通に従事する人たちが日本語ネイティブではなく韓国から来た人たちに取って代わられたあたりの頃から、この「当たり前」の常識は覆り、私としてはいまだに違和感をぬぐえない「パク・ボゴム」や「パク・ボヨン」といった表記がもはや「公式」となり、従わざるを得ないものになっています。それを言うならなぜ「バク・ボゴム」や「バク・ボヨン」としないのかとも思うのですが、恐らくパスポート表記で姓はPを用いているから、そこはそれでいいということなのでしょう。韓国語ネイティブの場合は、韓国語がそもそも濁音・半濁音という分け方をしない言語なので、この辺は割とアバウトなんですよね。
私などは、どうしても「バンタン」と書くのに抵抗があって、私的な場面では常に「パンタン」と書いてしまうのですが。あ、防弾少年団、BTSの略称のことです。(笑)
何の愚痴を急に言いだしているのかと我ながら思いつつ続けますが。(笑)
私が「モジャムサ」、「誰だって無価値な自分と闘っている」というタイトルに触発され、思い浮かべる、普段は人にわざわざ言うことのない思いとは、そういう種類の「諦め」です。
自分の仕事が無価値にされるという諦め。
時代の流れに抗うことができない諦め。
私がこのようなことを一人「モジャムサ」からの連想ゲームで思っているのとちょうど同じ頃、芥川賞作家の平野啓一郎先生もAI翻訳についてSNSで発信されているのを読みました。
平野啓一郎先生は、AIが翻訳した本が出版されるということを超えて、KindleにAI翻訳が実装されるようになった場合、誰の文体でこれを読みたいと指示できるようになれば、各自が全くバラバラの外国語文学の新刊を読むことになりうるということを書いていらしたのですが。
たしかにそういう事態はすぐそこに来ている気がしますし、なんなら「平野啓一郎風の文体で小説を書く」ということを指示し、それらがAI作家本として出版されるということだって起きうるのですよね。
そして同じ頃、BTSのリーダー、ナムジュン君が、「もう誰も自分たちの歌詞を聞いていない」、「でもそういう時代だとしても、自分たちは言葉の力を信じて伝えていきたい」といった主旨のことを切々と話しているのを聞いたりもして。
ちょうど同じ時期に、異なる文脈からではありつつ、「言葉」、「伝えること」、「共感と疎通」といったキーワードに集約できそうな事柄について考えていたり悩んでいるお二人の発言に触れたのもあり、「モジャムサ」であれこれ触発され、考え込みがちだった私は、「結局『何者か』になった後も、人はこうして真摯に考え、悩み続け、問い続け、闘い続けるものなんだな」と、当たり前と言えば当たり前の結論に、暫定的にたどり着くことができました。
時代が変わり、これまでの常識が通用せず、自分のやってきたこと、やっていることが無為なものにされていくような危機感と焦燥、寂しさはありながらも、精神衛生上、流すしかないものは流しつつ、でも人間の本質がそんなに変わるものだろうかとも思っているので。
人が自分好みにカスタマイズされたもの、アルゴリズムが提案してくるものに心地よさを求め、求めるようになることと、何でも手軽に手に入ったり「ある程度」理解できればそれで十分とするような空気に普段は自分も交わっているとしても、人が手軽じゃないものを全て排したり、深い探求心を失ったり、誰かとの共感や連帯感を求めなくなるわけではないと、やっぱり思うんです。いいものを見たら話したいし、もっと知りたくて探して読んだり、実際に出向いて自分も体験してその感情を味わいに行ったりということを、人が止めるとは思えないので。
ナムジュン君が「もう誰も僕たちの歌詞を聞いていない」と言った時、私はとても驚きました。
恐らく殆どのファンはナムジュン君の言葉を、歌詞を、むしろ噛みしめていると思うのです。そんな風に思っているなんて、思ってもみないことでした。
同じように、平野啓一郎先生「風」にテクニカルに味付けされた小説なんて、そんな人を馬鹿にしたものは誰も読もうと思わないだろうと思うのです。本物の平野啓一郎先生の文章が読みたいし、言葉が聞きたいし、知りたいわけで。
ニセモノ、まがい物を選り分けたいという人間の本質的な部分は、テクニカルな部分とは違う次元で存在し続けると思うのです。
結局人は自分が信じる価値があると思うことをやめないほうが、いいのだろうな。それが生きる原動力に結局なってきたし、これからもなるんだろうなと思うに至りました。
『誰だって無価値な自分と闘っている』という、ちょっと突き刺さるタイトルのドラマを見た人々の感想を、ドラマ以上に真剣に読み、次々と連想ゲームのように沸き起こる思考や思いに向き合うのは、ちょっと痛かったですが、でもとても意味のある時間になりました。
って、そんな独り言は日記に書けばいいものを、思わずここに書き記してしまいましたが。(笑)
それでも少しでもどなたかとは共有できる思いがあったなら、幸いです。
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