みなさま、こんにちは。

台風一過、さわやかな秋晴れに恵まれた三連休でした。
さわやかどころか連休中日は東京は30度を超える暑さで、10月の中では過去最多の真夏日に並んだそうですね。
四季がある筈の日本も、人々の噂レベルではなく統計上もどんどん春と秋が短くなっていっているのでしょうか。
なにはともあれ、短い秋を楽しみたいものです。

さて、今日も前回に引き続き、映画『1987、ある闘いの真実』にまつわる出演者のエピソードなどを取り上げてみようと思います。
映画のネタバレが含まれますので、未見の方はお気をつけください。


***この記事は映画のネタバレを含んでいます***


少数の登場人物が物語を深めていくよりも、次々と新しい顔が登場し1987年1月から6月までを駆け抜けていく『1987、ある闘いの真実』。

名前と顔を知られた俳優たちが、短い分量ながら強烈なインパクトを残しては去っていくこの映画では、この方の登場も強い印象を残しました。






オ・ダルスさん。

当局の報道規制に従わず、パク・ジョンチョルさんが警察の取り調べの最中に亡くなったことを一番最初に記事化した「中央日報」の社会部長(オ・ダルス扮)が、公安警察に踏み込まれる中で身を隠しながら担当記者に逃亡するよう電話をかけるシーンは、見る者に興奮を与えました。

オ・ダルスさんもキム・ユンソクさん同様、実はパク・ジョンチョルさんと同じ高校。
キム・ユンソクさんは2年下、オ・ダルスさんは3年下の後輩でした。

チャン監督が色々な媒体で明かしていますが、オ・ダルスさんも映画製作の噂を聞きつけ、監督に自ら連絡し、「どんな小さな役でもいいから」と出演を志願されたそうです。
「誇らしい先輩の後輩としてこの映画に参加するのが筋だと思ったし、意義深い仕事になると思った。監督に、少しでもいいので出演させてほしいとお願いした」とインタビューに答えていたオ・ダルスさんです。

また、パク・ジョンチョルさんとの遺体対面後、警察車両に押し込まれながら「ジョンチョルは拷問で殺された!」と報道陣に向かって泣き叫びながら告発した叔父役を務めたチョ・ウジンさんも、オ・ダルスさん、前編①でとりあげたキム・スンフン神父役のチョ・インギさんと同じく出演直訴組であったことが、チャン監督によって明かされています。








パク・ジョンチョルさんの叔父が報道陣に向かって泣き叫ぶシーンは、ほんの短いシーンながら叔父さんの絶叫が胸を貫くようで涙が止まりませんでしたが、『トッケビ』での活躍で人々に本格的に知られるようになったチョ・ウジンさん、強い思いを持ってこの映画に臨まれていたんですね。

映画出演を志願したことについて、チョ・ウジンさんはインタビューでこう答えていました。

「役柄にかかわらず、映画に参加するだけでも本当に意義深いことでしたし、俳優なら掛け値なしにやるべき作品ではないかと考えました。責任と義務感を持って参加しました」

ちなみにチョ・ウジンさんは、同時期に韓国で公開されていたチョン・ウソンさんとクァク・トウォンさん主演映画『鋼鉄の雨』にも比重のある強烈な役柄で出演されていました。今後ますますのご活躍が期待される方ですよね。


中央日報からバトンを継ぐように、さらに真相に迫った報道を行った東亜日報。
パク・ジョンチョルさんの遺体を最初に検死した中央大病院の医師を取材し、その死は公安警察による暴行死であったとの見解を引き出して、大々的に報じます。
映画の中でイ・ヒジュンさんが演じていたのは、東亜日報の実在の人物、ユン・サンサム記者でした。







その後も旺盛な取材活動を続け、記者としての信望も厚かったとされるユン・サンサム記者ですが、東京特派員となってほどなく肝臓癌を患われ、1999年に44歳の若さで帰らぬ人となりました。

一方、オ・ダルスさんが演じた中央日報の社会部長は、クム・チャンテ編集局長代理をモデルとしていました。
パク・ジョンチョルさんの死を最初に報道した功績により出世街道を進んだクム・チャンテ氏は、1999年には中央日報社長に、退社後2003年には「時事ジャーナル」の社長に就任。
「時事ジャーナル」は1989年10月に創刊された週刊誌で、気骨ある記事で評価が高かったのですが、2006年、サムソン副会長の不正疑惑を暴こうとした記事をクム・チャンテ氏は自ら印刷所に出向いて防ぎ、本来記事があるべき場所にサムソンの広告を掲載。それに反発した記者をかたっぱしから解雇する暴挙に出ます。24人の記者のうち21人が会社を離れ、「時事IN(シサイン)」を設立。「時事IN」は今韓国で最も気骨のある週刊誌として人々に認識されています。

軍事独裁政権には逆らえてもサムソン資本には逆らえないとは、なんとも恐ろしい韓国の現実を示すようですが、この一件によってクム・チャンテ氏は当時得た賞賛を自ら全て返上したと言えるでしょう。

映画をご覧になると、中央日報や東亜日報がまるで正義の味方かのように思われるかもしれませんが、「東亜日報にもあんな頃があったんだ」と乾いた笑いを見せる観客が大半であるのが現実。
東亜日報や中央日報にそのような「公正な報道」などは見いだせなくなって久しいです。朝鮮日報はもとより。
ちなみに、1974年、東亜日報が軍事政権当局の直接的な報道介入により大量の解雇者を出したことは前編①のキム・ウィソンさん扮するイ・ブヨン記者についての箇所で触れましたが、1974年に東亜日報を解雇された記者を中心に公正で正義ある言論をと賛同した市民らの出資によって1987年12月に設立されたのが、現在のハンギョレ新聞です。


さて。

映画出演を志願する俳優さんたちの傍ら、監督が特別に出演を依頼した「1987年6月」にゆかりの深い俳優さんたちもいました。









ウヒョンさん。

パク・ジョンチョルさん拷問致死当時、治安本部長(現警察庁長)だった実在の人物カン・ミンチャンを演じたウヒョンさんは、実は1987年当時、延世大学の学生運動リーダーとして各種デモ隊を率いる側の人物でした。

光州出身で1964年生まれのウヒョンさんは、1987年時点で既に2度の投獄を経験している状況にあったそうです。

パク・ジョンチョルさん拷問致死に憤る学生および在野運動圏による反政府抗議集会が各地で繰り広げられ、大統領直接選挙制に向けて改憲するとした約束を反故にした全斗煥の「4.13護憲措置」の撤回を求める怒りの声が大きなうねりになっていた頃。
延世大学のキャンパスから出発しようとした学生のデモ隊に戦闘警察(機動隊)が催涙弾を容赦なく打ち込み、延世大2年生のイ・ハニョルさんが後頭部に催涙弾を受けて倒れるのですが、実はウヒョンさんは延世大総学生会幹部としてデモの現場にいたのでした。

危篤状態が続き、7月5日に帰らぬ人となったイ・ハニョルさん。
7月9日には延世大で大規模な追悼式が行われ、その後キャンパスを出発し新村ロータリーを経てソウル市庁前広場に向かい、最後は光州の5・18墓地に向かうのですが、この時ソウルの路上葬儀には100万人、光州では50万人、全国合わせて160万人が集結しました。


その前日。遺影を抱く延世大総学生会長ウ・サンホさん(現「共に民主党」国会議員)の隣りで太極旗を持つウヒョンさんの姿を捉えた、一枚の写真。








この写真は米国人フォトジャーナリストのキム・ニュートンさんによって撮られたもの。

TIMEやNewsweekなどの雑誌に写真を提供していたキム・ニュートンさんは、オリンピックを控えた韓国各地の姿を写真で紹介するために韓国に滞在していたのですが、パク・ジョンチョルさん拷問致死をめぐる政情激変を受けて滞在先の済州島からソウルに上京し、以降数々の現場をカメラに収めてきました。
この写真は時事週刊誌「U.S.ニューズ&ワールドリポート」の「Photo of this week(今週の写真)」に選ばれ、韓国の政治状況を世界に知らせる役割を果たしました。

現在はアリゾナ大学の教授を務めるキム・ニュートンさんは、去年2017年6月10日、ソウル市庁前で行われた6月民主抗争30周年事業に訪れ、文在寅大統領にこの写真を手渡します。









前日の6月9日に延世大で開かれたイ・ハニョルさんの追悼式の場にも訪れ、写真の中の二人と再会していたキム・ニュートンさん。




(写真出典は韓国PD連合会のコチラの記事より)



韓国では「6月民主抗争」は6月10日を始発点として数えます。
イ・ハニョルさんが機動隊による催涙弾で倒れた日の翌日です。
もともと6月10日はソウル市庁前広場で大規模集会「拷問殺人隠蔽糾弾および護憲撤廃国民大会」が予定されていました。
4月13日に改憲を反故にした全斗煥が次の大統領候補に盧泰愚を指名したことを受け、6月10日、与党が党大会を開き盧泰愚が受諾記者会見を行う予定だったのです。
それを阻止すべく延世大生たちが前日に6.10参加に向けた決議大会を行った後、デモを出発させようとしたのですが、総力を挙げて鎮圧にかかった警察側の暴挙の果てに、白昼のキャンパスで学生が犠牲になりました。
意識不明に陥る前、イ・ハニョルさんが最後に口にした言葉は、「明日市庁前に行かなきゃいけないのに」だったそうです。








本当に痛ましい写真です。


血を流しながら意識を失っていくイ・ハニョルさんを必死に抱える延世大2年イ・ジョンチャンさん。
その様を写真に捉えたのは、ロイター通信の韓国人写真記者、チョン・テウォンさんでした。

翌朝、ニューヨークタイムズと中央日報の一面に写真が掲載され、その日の夕方、ソウルでは100万人、全国総勢160万の人々が街頭に出て怒りの声をあげるに至りました。

韓国で「ネクタイ部隊」と呼ばれたサラリーマンたちが大挙して街頭に繰り出した初めての日が87年6月10日ですが、実はこの時韓国政府は、翌年に控えていた88年五輪に向けて5月からサマータイムを導入していました。
通常より時間が1時間早まっていたおかげで、勤め帰りの会社員たちがさらに大勢詰めかけることができたのでした。

他にも、オリンピックを翌年に控えて世界の耳目が集中する中、さすがの全斗煥も80年5月光州のような殺戮行為は行えなかったのだと、当時6月10日の大規模決起集会を率いていたユ・シチュンさん(作家ユ・シミンさんの姉。現EBS韓国放送公社理事長)は分析されています。
みんなが反対する中全斗煥が強行した88年オリンピック誘致でしたが、サマータイム制の導入も含め、皮肉にもその五輪によって自らの政治生命を終わらせる格好になったとユ・シチュンさんはインタビューで答えていました。


そして、イ・ハニョルさんの追悼式前日に撮られたもう一枚の写真。







右端でうなだれているのは、ウヒョンさんと同期で同じ神学部に所属し、やはり延世大総学生会リーダーの一員だった、俳優のアン・ネサンさんです。







素手で抗議する学生たちに催涙弾を容赦なく発砲し、捕まえれば拷問を加える。

改めて振り返っても狂気と野蛮の支配する時代でした。

こういう野蛮の限りを尽くしてきた人たちの性根って、本当になかなか変わらないと2018年のこの時点でも実感します。
今もまだまだ気を許せないという緊張感を、多くの人が共有しています。


そしてもう一人、実際の「1987年6月」の状況と深い縁を持つこの方。







ムン・ソングンさん。

当時、権力の中枢にあった国家安全企画部(安企部)の部長を演じ、パク・ジョンチョルさん拷問致死が明るみに出ることで政権が揺らいではならないとパク所長を圧迫する、悪辣な人物を演じています。
ムン・ソングンさんも、キム・ウィソンさんに引けを取らないほど、悪役が多い俳優さんですよね。

映画の最後、エンドロールとともに実際のイ・ハニョルさんの追悼式/葬儀の模様が流れるのですが、その時弔辞を読んだのが、ムン・ソングンさんの父親である文益煥(ムン・イクファン)牧師でした。







この時文益煥牧師は、弔辞の代わりに70年代と80年代にかけて民主化運動の過程で命を落とした26人の人々の名前を叫んでいました。
70年11月13日、「我々は機械ではない!勤労基準法を守れ!」と訴えてソウルの平和市場で焼身自殺した22歳の縫製工場労働者、全泰壹(チョン・テイル)さんの名前を皮切りに、87年1月のパク・ジョンチョルさん、そして最後は7月5日に永眠したイ・ハニョルさんの名前を絶叫した文益煥牧師。
1919年生まれの文益煥牧師は、何度も投獄されながら聖職者の立場で生涯民主化と統一を求めて闘い続けた人物です。

『私は齢70になる老人です。
人生をほぼ生き終えた体で昨日釈放されたところ、21歳の若者の葬儀で弔辞を読んで欲しいと頼まれました。』

そう前置きして犠牲になった人々の名前を叫び始めた文益煥牧師。

以下は1987年7月9日に延世大で行われたイ・ハニョルさん追悼式での、実際の文益煥牧師の映像です。








あー、涙。

実際の当時の映像は、ちょっとつらすぎますね。

ちなみに映画ですが、最後にこの文益煥牧師のシーンなどを背景に流れていた歌は、“その日がくれば/그날이 오면”という曲です。
以前私がブログで紹介した、南北の平和と統一を願う韓国オールスターによる“その日がくれば”とは別の曲で、文益煥牧師が最初に名前を挙げている全泰壹(チョン・テイル)さんの生涯を描いた演劇『火花』のために85年に作られた曲です。この歌は、以降「歌を探す人々/노래를 찾는 사람들」という民衆歌謡を歌うフォークグループによって大衆化し、民主化運動圏で数知れず歌われてきました。


한밤의 꿈은 아니리
오랜 고통 다한 후에
내 형제 빛나는 두 눈에 뜨거운 눈물들
한줄기 강물로 흘러 고된 땀방울 함께 흘러
드넓은 평화의 바다에
정의의 물결 넘치는 꿈

그날이 오면 그날이 오면
내 형제 그리운 얼굴들 그 아픈 추억도
아 짧았던 내 젊음도 헛된 꿈이 아니었으리
그날이 오면 그날이 오면

그날이 오면 그날이 오면
내 형제 그리운 얼굴들 그 아픈 추억도
아 피맺힌 그 기다림도 헛된 꿈이 아니었으리
그날이 오면 그날이 오면・・・

一夜の夢ではない
長い苦しみの果てに
わが兄弟の光る両目には熱い涙
一筋の川となって流れ
苦しみの汗も共に流され
広大なる平和の海に
正義の波が満ちる夢

その日がくれば その日がくれば
わが兄弟、懐かしい人々
あのつらかった追憶も
短かった私の若さも
無駄な夢ではなかったのだ
その日がくれば
その日がくれば

その日がくれば その日がくれば
わが兄弟、懐かしい人々
あのつらかった追憶も
血を流し待ちわびた時間も
虚しい夢ではなかったのだ
その日がくれば
その日がくれば







やばー。

また涙が。


エンドロールとともにこの歌が流れてきて、かつ当時の実際の映像で振り返りながら映画を締められたら、席なんて立てるわけがありません。
しゃっくり上げが止まらない状態。
本当に本当に悲しいエンディングでした。


映画のラスト、エンドロールに入る前、先輩のイ・ハニョルさんが催涙弾に打たれて倒れたと聞き、泣きながら街に飛び出してくるヨニ。
デモ隊に導かれてバスの上に上ると、そこには数万の群衆。
「護憲撤廃!独裁打倒!」のシュプレヒコールのもと、いつしかこぶしを突き上げるヨニでしたが、このシーンの演技指導をしたのは、チャン監督の妻で女優のムン・ソリさんでした。







ムン・ソリさんは1974年生まれで、大学に入学したのは90年代に入ってからなのですが、実はバリバリの学生運動圏出身とのこと。

これだけの犠牲を払って大統領直接選挙制を勝ち取ったものの、与党側の大韓航空機事件の露骨な政治利用や野党候補者の分裂などで、民主勢力側はありえないことに大統領選出に失敗してしまいます。
軍服を背広に着替えただけの盧泰愚政権下でも大学生拷問致死事件は起きていましたし、民主化を求める学生運動はムン・ソリさんの頃にも続いていたんですね。

デモ隊のスクラムの組み方など細かい点が監督には分からず、どうも格好が決まらないと困っていたそうですが、ムン・ソリさんがきて腕の組み方や声の出し方を指南した途端ぐっとそれらしくなったそうです。
さすがは本物!(笑)

のみならず、私は全く気付かなかったのですが、デモ隊のシーンに秘かにムン・ソリさんは出演されているそうです。
そういえば、最後「護憲撤廃!独裁打倒!」のコールをかけていた声は、女性だったような・・・・・・。
ムン・ソリさん、どうしてもこの映画に出たくて、邪魔にならないところで出られないか監督と話し合っていたそうです。
投資は集まるのか、ブラックリストに載っちゃって本当に大丈夫なのかと心配が絶えなかったはずですが、家庭内に最大の援軍がいて良かったですよね、監督。


さて。


いよいよこの方に触れなくてはなりません。








イ・ハニョルさんを演じたカン・ドンウォンさんがイ・ハニョルさんの母ペ・ウンシムさんと撮った写真です。
「イ・ハニョル記念事業会」提供のこの写真は、昨年7月のものとあります。


チャン・ジュンファン監督は、1987年6月をテーマにした映画を撮ろうと決意した時から、この映画は誰か一人によるものでは無い大勢の人たちひとりひとりの力によって世界を変えたことを示すものにしたいと思っていたそうです。それが実際の状況でもあったからと。

短い登場であっても観客に役が記憶され、みんなが主役になる映画にするにはどうすればいいのか、どうしたら観客が楽しんでついてきてくれるか、かなり悩んだという監督。主な登場人物に関しては観客の心を瞬間的につかんで受け入れてもらう必要があったため、馴染みのある顔である必要があったのだそうです。
この映画の出演者が豪華なスター揃いなのは、そうした理由からだったのですね。

映画を貫く悪役パク所長をキム・ユンソクさんが引き受けてくれた後、キム・ユンソクさんと一緒にハ・ジョンウさんを呼び、映画の出演を打診した監督。
キム・ユンソクさんに続いて出演を快諾したハ・ジョンウさんは、キム・ユンソクさんともども映画『群盗』、『チョン・ウチ 時空道士』、『プリースト 悪魔を葬る者』などで共演し親しい間柄にあったカン・ドンウォンさんをその場に呼ぶことにし、駆け付けたカン・ドンウォンさんとマッコリを飲みながら4人でこの映画について話したそうです。(*)


監督はのちにカン・ドンウォンさんキャスティング秘話について、「ノーカットニュース」に次のように話しています。


(カン・ドンウォンのキャスティングは)奇跡のような出来事でした。実はカン・ドンウォンさんとは交流があり、リラックスしながら、でも慎重に、実はこういうプロジェクトを準備しているのだと話していました。その時は、完成したら見たいと言っていました。
私としては、やってもらえる役がなかったんです。実際そうですよね。主演クラスの大スターですし、「厳冬雪寒」(極寒期。朴槿恵政権下だったという意味)でしたから、そういうことも考えざるを得ませんでした。
ところがシナリオを読んだ後、「自分は顔が知られすぎている人間なので、登場によって迷惑がかかるかもしれないけど」と案じながらも、やりたい、やると答えてくれたんです。本当に大きな力になりました。キム・ユンソクさんもハ・ジョンウさんも同じです。みんな、今後の政権がどうなるかもわからない状況で出演を決めてくれて、それが大きな力となって雪崩を打ったと思います。



下手をすればその後の役者人生がいくばくか阻まれたかもしれない状況の中、キム・ユンソクさん、ハ・ジョンウさんに続き、カン・ドンウォンさんも同時期にいち早く出演を決めていたのです。


【追記】
(*)
監督の別のインタビューによれば、この日、ハ・ジョンウさんと会っていたキム・ユンソクさんに呼ばれて合流した後、カン・ドンウォンさんを呼ぼうということになったものの海外にいたため、後日すぐ4人で会ったとのこと。また、一番最初に出演意思を明かしてくれたのは、カン・ドンウォンさんだったとも。
出典はコチラの記事(追記ここまで)



カン・ドンウォンさんは2017年の4月に光州に住むイ・ハニョルさんのお母様に監督と共に会いにいき、「泥を塗らないよう、精一杯頑張ります」と報告。以降も忙しいスケジュールの合間を縫って、イ・ハニョルさんのお母様に会いに行っているそうです。


こちらは2017年4月、イ・ハニョルさんのお母様と一緒にお墓参りをしている様子。





(©イ・ハニョル記念事業会)



「背が高いところが息子に似ている。息子もこうして帰ってきてくれたらいいのに」

お母様の言葉に、胸が詰まります。
イ・ハニョルさんのお父さんは、息子さんを軍事独裁政権に奪われた怒りと悲しみのあまり、わずか5年後に病気で亡くなられています。その後の長い歳月をお母様はひとりで耐えながら、民主化運動の隊列に加わってこられました。


2017年6月には、撮影現場を激励のため訪問していたお母様。



(©イ・ハニョル記念事業会)




実はこの映画にカン・ドンウォンさんが出演していることは、公開前は完全に伏せられていました。

映画情報にも名前がありません。当然スチール写真も。

パク・ジョンチョルさんを演じたヨ・ジングさんとイ・ハニョルさんを演じたカン・ドンウォンさんについては、出演が徹底的に秘密にされていたのです。

確かに韓国現代史において、パク・ジョンチョルさんとイ・ハニョルさんのお二人の名前は、あまりに尊いもの。
超有名スター俳優の名前が先走りしないよう制作側から最大限の配慮がなされていただろうことは、想像に難くありません。

私も、イ・ハニョルさんの役でまさかカン・ドンウォンさんが出ていると全く知らずにいたのですが、これも避けがたい事態というのか・・・・・・。

今となっては誰のものだったか覚えてもいませんが、映画を見るまではと徹底的に関連記事を遠ざけて過ごしていたのに、誰かの文章が不意打ちにタイトルからネタバレで目に飛び込んできてしまい、否応なくカン・ドンウォンさんがイ・ハニョルさんの役で出ていることを知らされてしまいました。
あの時の衝撃と怒りは忘れられません。誰だったか覚えていませんが。(笑)

これ以上ネタバレを目にしてはかなわないとすぐに観に行ったのですが、登場の仕方までは想定しておらず、カン・ドンウォンさんの姿がスクリーンに現れた時は、思わず声が出てしまいました。
実は、客席のほうぼうから、女性たちの甲高い声が。(笑)

冒頭のパク・ジョンチョルさんのシーンも、まさかヨ・ジングさんが演じていたとは。
「ヨ・ジング?!」の声ともつかないささやきも、映画館で聞こえていました。


監督の狙い通り、二人の起用によって観客はすぐに共感し、感情移入できたのではないかと思います。

映画公開から数日後、「イ・ハニョル記念事業会」は公式ページに映画を見終えた感想をあげ、カン・ドンウォンさんへの謝意を記していました。


(前略)特別に感謝の言葉をお伝えしたい方がいらっしゃいます。イ・ハニョルの役を演じて下さったカン・ドンウォンさんです。
彼は2016年の夏、JTBCのタブレットPCに関する報道が出る前(まるで100万年前の遥か遠いことのように感じますよね?)、朴槿恵が権勢をふるっていた頃、俳優としての不利益に甘んじる覚悟で一番最初に駆けつけてくれ、配役を引き受けてくれました。カン・ドンウォンさんも同じように、小さな、しかし山のように大きな勇気を出してくださったのです。俳優カン・ドンウォンさんに、もう一度深い感謝をお送りします。


*「JTBCのタブレットPC」というのは、朴槿恵が国政を部外者に任せていたことを証明する証拠物のことです。


改めて、本当に、カン・ドンウォンさん以上の配役はなかったと思います。

イ・ハニョルさんにヨニが淡い恋心を抱くという流れを、いらない脚色だとする声がないわけではなかったのですが、ヨニにとってイ・ハニョルさんに起きた悲劇が心揺さぶられ、他人事でなくなるためには、二人の間に何かしら分かち合う感情がなければならなかったと思うので、私は全く問題ないと思っています。

また、若くしてこの世を去らなければならなかった息子さんに、せめて映画の中であっても誰かに恋心を抱かれるような瞬間があったと想像するのは、残されたご遺族にとってもほんの少し、ほんのほんの少しの慰めになったのではという思いもあります。
勿論、ご遺族の悲しみは、到底うかがい知れるものではありませんが。
それはもしかしたら、ただ私の、観客としての願いなのかもしれません。

今年の1月7日、監督やキム・ユンソクさん、カン・ドンウォンさん、ムン・ソングンさんら俳優の皆さんと文在寅大統領夫妻らが一緒に映画を観覧する機会がありました。

映画観覧に先立って、同じく招かれていたパク・ジョンチョルさんの兄パク・ジョンブさん、イ・ハニョルさんの母ペ・ウンシムさんの他にチェ・ファン元検事、看守のハン・ジェドンさんら実在の人物たちや関係者を交えて、文大統領と談笑する時間も設けられていました。

文在寅大統領は1987年当時、人権派弁護士として故盧武鉉大統領(当時は弁護士)とともに釜山地域での民主化運動の先頭に立っていました。
弁護士時代からご遺族とは縁を結んでこられているのですが、この日は楽しげに談笑を交わしたものの、イ・ハニョルさんのお母様は結局この映画をご覧になれなかったということがありました。
つらくて、どうしても見ることができないのだそうです。

こちらが映画観覧前の談笑の様子。
文大統領の隣りがパク・ジョンチョルさんの兄パク・ジョンブさん。








この日は映画上映後に文大統領とキム・ユンソクさん、カン・ドンウォンさん、チャン・ジュンファン監督らが前に出てスピーチをされたのですが、一言喋りだした途端チャン監督が泣きだし、カン・ドンウォンさんもずっと後ろを向いて泣いている状況で、目を潤ませて涙をこらえるキム・ユンソクさん、文在寅大統領ともあいまって涙の嵐になりました。















カン・ドンウォンさんがキム・ユンソクさんがスピーチを終えても泣き止まなくて、実は大統領が最後を飾るはずだったのが、期せずしてカン・ドンウォンさんがトリを飾ったんですよね。(笑)

この日チャン監督、キム・ユンソクさん、カン・ドンウォンさんは以下のように発言されました。


チャン・ジュンファン監督
「一生分の涙をこの映画で流してます。何度も見たのに・・・・・・」

キム・ユンソクさん
「監督が泣き虫なんです。なので、私が引き継いでバトンを受けます。
ここまできました。この映画は、国民の皆さまにもっとたくさん見ていただくべき映画です。みなさん、力を貸してください。ありがとうございました。」

カン・ドンウォンさん
「この映画に取り組みながら、自分が今こうして幸せに暮らせているのもたくさんの恩義の上でのことなんだと思っていましたし、その借りを少しでも返したいという思いで参加したのですが、今もまだ胸が随分痛みます。
とにかく。一生懸命これからもいい映画を撮って、報いていこうと思います。」









映画『1987』の舞台に並んで立つ資格のある大統領を得られたことを、心から幸いに思います。





最後にこの時の動画を載せておきます。

動画はyou tubeのNo cut news公式チャンネルより。

実際の時系列では初めに懇親会があったのですが、動画では懇親会のシーンが最後に来ています。発言はダイジェストになっています。





チャン監督:一生分の涙をこの映画で流してます。

キム・ユンソク:監督が泣き虫なんです。なので、私が引き継いでバトンを受けます。みなさん、力を集めてください。ありがとうございました。

文大統領:たくさん泣かれましたよね?(はい)私が今日映画を見ながら一番心に大きく響いたセリフは、「そんなことしたって、世の中変わるんですか?」でした。
(映画のシーン挿入)
恐らくみなさんも去年の冬ロウソク集会に参加する時も、ご両親や近しい人たちから「そんなことしたって世の中の何が変わる?」、そんな言葉を随分聞かされただろうと思うんです。
今も、政権が変わったからって世の中何が変わったというのかという方もいます。
私は今日のこの映画が、その質問に対する答えだと思っています。「6月民主抗争」以降に政権交代ができなかったために未完のままだった6月民主抗争を完成させているのが、昨年の冬から今まで続いているロウソク革命です。

カン・ドンウォン:この映画に取り組みながら、自分が今こうして幸せに暮らせているのもたくさんの恩義の上でのことなんだと思っていましたし、その借りを少しでも返したいという思いで参加したのですが、今もまだ胸が随分痛みます。

(事前懇親会)
故イ・ハニョルさんの母ペ・ウンシムさん

故パク・ジョンチョルさんの兄パク・ジョンブさん


ムン・ソングン:パク・ジョンチョルさんが亡くなられた時・・・・・・。

文大統領:(パク・ジョンチョルさんの)お宅に一度伺いました。

パク・ジョンブさん:盧武鉉前大統領と一緒に訪ねてきてくださいました。


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1987年の「6月民主抗争」から30年経って、2017年の人々はひとまずロウソク革命で勝利を得ました。
でもそれは、終わった話ではなく、本当は今からが始まりなのだと感じている人が、私を含めて大勢います。
今まで歩んだことのない全く新しい道を手探りで進まなければならないことに不安も感じますが、「慣れた道」というだけの理由で誤った過去に回帰する愚を犯したくはありません。

平和に進む道のほうが実は私たちには不慣れで未知であるという事実に改めて驚かされますが、払われてきた尊い犠牲を無駄にしないためにも、道を誤らずに進んでいければと願っています。