みなさま、こんにちは。

「『1987、ある闘いの真実』出演者秘話、人物その後など」と題して2度にわたってエピソードなどをご紹介してきましたが、今日はそこで拾いきれなかった話を最後に取り上げます。
映画のネタバレを含みますので、未見の方はご留意くださいませ。

***この記事は映画のネタバレを含んでいます***

 

前回①②では、実はこの映画の大事なもう一人の「主役」について取り上げられていませんでした。

この方。

 

 

 

パク・ジョンチョルさんを演じたヨ・ジングさん。

写真は左からキム・ユンソクさん、パク・ジョンチョルさんの兄パク・ジョンブさん、映画の中でパク・ジョンチョルさんの父を演じたキム・ジョンスさん。

映画の冒頭から拷問に遭うシーンで、見る者もとてもつらかったのですが、キム・ユンソクさんはインタビューでヨ・ジングさんについてこう話していました。


「チャン・ジュンファン監督がパク・ジョンチョル烈士の役をジングに任せた。この役を快く引き受けたことに、えらいと思った。分量は少ないのに役割は甚大なので、かなりのプレッシャーだっただろうに、快くやると言ってくれたところが頼もしかった」、「映画の中に登場するパク・ジョンチョル烈士の写真にも似ていて、びっくりした。シンクロ率の高さに驚いた」

(出典はコチラ

 

烈士とは、民族独立運動や民主化運動などで闘った方につける尊称です。

実はヨ・ジングさん、当初は自分の役がパク・ジョンチョルさんだとは知らずに、『ファイ 悪魔に育てられた少年』で共演したキム・ユンソクさんとチャン・ジュンファン監督に久しぶりにまた会いたくて、出演を引き受けていたそうです。
映画の時代背景については知っていたものの、自分の役があのパク・ジョンチョルさんだと聞かされて緊張したと、インタビューで明かしていました。
撮影を終えても胸が痛み、去年の5月18日(光州民主抗争記念日)は感慨が新たになったとヨ・ジングさん。
演じるに当たってかなり悩み、「欲を捨てて淡々と演じよう」と決めたのだそうです。なにかを付け足したりするほうが、映画の邪魔になると思ったのだそうです。(出典記事はコチラ

1997年生まれのヨ・ジングさんにとっては1987年は生まれる10年も前のことな上、韓国現代史の中で悲劇的な最期を迎えなければならなかった実在の人物を演じることになったので、「パク・ジョンチョルさんだと聞かされて緊張した」というのは本当に率直なところだったのでしょう。

ヨ・ジングさんはパク・ジョンチョルさんの役を演じたことについて、今年1月6日の舞台あいさつの中で、こう述べていました。


「多くの方が、僕が出演することをご存じなかったと思います。カツラも実際のパク・ジョンチョルさんの姿に似せて製作しましたし、また、僕がかけていたメガネは、実際のパク・ジョンチョルさんの眼鏡と全く同じになるよう、それをモデルにした眼鏡なので、自分で見てもすごく似てました。とても光栄でした。
僕が大きな役割を任されることになり、撮影の間は、プレッシャーというよりは多くの人たち、特には僕と同世代の人たちに―僕にとってはあまりよく知らない事件だったので、1987の中で取り上げている事件が。―必ず伝えたいという使命感と言いますか、そういったものを持って一生懸命撮影しました。
映画を見ながら、僕もたくさん涙を流しました。」

 

『太陽を抱く月』の時はあんなに幼かったのに。
と思わず思ってしまいます。
ヨ・ジングさん、いつの間にかすっかり青年になられましたね。

 

カン・ドンウォンさんと並んで出演が伏せられていたヨ・ジングさんなので、劇中のスチール写真がないのですが、映画を見ると遺影の中のヨ・ジングさんと実際のパク・ジョンチョルさんの写真は、驚くほど似ていました。

 

 

(©パク・ジョンチョル記念事業会)

 

本当にまだあどけなさの残る青年なのに・・・・・・。

「被疑者」ですらない「参考人」だったのに、下宿に立ち寄った手配中の先輩の行き先の心当たりを最後まで口にしなかったため、殺されてしまったパク・ジョンチョルさん。
ご家族の怒りと悲しみの大きさいかばかりだったでしょう。

 

実はパク・ジョンチョルさんの父を演じていたパク・ジョンスさんも、当初は役に非常にプレッシャーを感じていたそうです。
出演依頼を受け、監督に別の役に変えてほしいと一度は願い出たというキム・ジョンスさん。もしまだ配役が決まってないのなら、同じ年代のアン保安係長に変えてはもらえないかと。
監督の様子から、変えてくれるつもりはないらしいと察したそうです。

撮影前の1週間は、プレッシャーから寝込んでしまっていたとキム・ジョンスさん。
最後は開き直って撮影に挑んだそうです。石を手に闘ったりはしなかったものの、自分もあの時代の民主化運動には借りがある世代なので、しっかりやり遂げたい思いは強かったそうです。

 

こうして生まれた、世にも悲しい場面。

 

 

 

 

零下10度のイムジン河。

当日は予報になかった雪が降り、凍てつく寒さの中、弟の遺灰を兄が川に撒き、遺影を抱いた放心状態の父がそれを見守るという、この胸の潰れるシーンが作られました。

 

映画を撮り終えた後、パク・ジョンチョルさんの父親、パク・ジョンギさんに会いに行ったというパク・ジョンスさん。
撮影に入る前に会えば、到底演じられなくなるだろうと思い、終わった後に挨拶に行かれたそうです。
父親のパク・ジョンギさんは骨折で入院生活を送っていたため、会えたのは映画の公開日だったそう。
認知症の症状もあったお父様ですが、その日はしっかり会話もでき、パク・ジョンソさんの母が病気だと聞き、手を合わせて祈ってまでくださったとインタビューで明かしたパク・ジョンソさん。
何かをして差し上げたい思いから、パク・ジョンソさんはお父さんの足の爪を切ってあげ、お父様にお礼を述べて病室を出られたのだそうです。

 

風に吹かれ、凍った川の上に溜まってしまった遺灰。
凍てつく川に腰までつかり、遺灰を拾い集めて川に流しながら「なんでいかないんだ!ちゃんといっておくれ!」と絶叫する父。

「チョル、さようなら。父さんには、なにも言うことがないよ
철아, 잘 가그래이. 아부지는 아무 할말이 없대이」

 

実はこの映画のセリフは、実際にパク・ジョンチョルさんのお父さんがイムジン江に息子の遺灰を流しながら口にした言葉でした。

映画の中ではイ・ヒジュンさん扮するユン記者が公安警察に阻まれながらこの場面を見守っていましたが、実際にはこの時、東亜日報のファン・ヨルホンという記者がこの場面を目撃していました。

1月15日、「ソウル大生が取り調べ中にショック死」というショッキングな中央日報の報道を受け、夕方には記者会見を開かざるを得なかった治安当局。
「机をバンと叩いたらウっと言って倒れた」という悪名高いセリフは、実際にこの時吐かれたものでした。
但し、キム・ユンソクさん演じるパク所長ではなく、実際にはウヒョンさんが演じたカン治安本部長のものでした。

余談ですが、キム・ユンソクさんは映画の中でこのセリフを言う時、途中「机をバンと叩いたら、ウッとなって、あ?/조사관이 책상을 탁치니! 억하고!…어?」と間を取っているのですが、セリフを言いながらもあまりにも馬鹿げた言葉で、思わず同意を得るような間が入ってしまったと明かしていました。

この「バンと叩いたらウッと言って」をそのまま報じろとの報道規制がかかっていたものの、東亜日報のファン・ヨルホン記者は、その日の夜遅く遺体と対面したパク・ジョンチョルさんの叔父がジョンチョルさんの姉のウンスクさんに話していた具体的な遺体の傷跡やあざの位置、「警察に殴られて殺されたんだ」と訴えていた会話を書きとめ、拷問致死であると16日に大々的に報道。

 

 

(1987年6月16日東亜日報)

 

この時ユン記者は、最初に遺体を見た中央大龍山病院のオ医師の証言確保を担当していました。

映画の中のユン記者はトイレに長時間潜伏してオ医師に接触していましたが、実際のユン記者は看護師や患者のいるオ医師の診療室に突撃し、30分間説得。結果意を決しあの日見たままを洗いざらい話してくれたオ医師の証言により、水攻めによる拷問致死と確信を得て16日にスクープを報じました。(出典はコチラ

公安当局は遺体解剖の翌日、有無を言わさず火葬させたのですが、「どうせ記事にできない」という他の記者の声に耳を貸さず、ファン・ヨルホン記者は今度は葬儀場に出向きます。

公安当局は証拠隠滅のために遺骨を粉々にし、イムジン江に車を止め遺灰を問答無用で川に流させるのですが、映画ではユン記者が見守っていたその場面を実際に取材したのは、唯一後を追ってきていたファン・ヨルホン記者だったのです。

ファン記者は「窓」というタイトルの記事で、火葬場を出た後のパク・ジョンチョルさんの父の姿を、こう描写しました。


<父パク氏は息子の遺灰を包んでいた白い紙を解き、灰色の粉を握りしめながら果てしなく(イムジン江の)川の上に撒いた。
『チョルよ、ちゃんと逝くんだぞ・・・』。
父パク氏は心の底から絞り出すような声で言った。父パク氏は最後に白い紙を川面に浮かべ、『チョル、さようなら。父さんには、なにも言うことがないよ』と慟哭を飲み込みながら、空に向かって叫んだ>

 

 

1月17日の東亜日報の紙面を飾ったこの記事は、人々に大きな悲しみと怒りを呼び起こしました。

以降、釜山なまりの父の言葉はパク・ジョンチョルさん拷問致死真相究明を求めるデモで象徴的に掲げられるようになりました。

 

(東亜日報)

 

密室で拷問され、誰も知らない間に亡くなってしまったパク・ジョンチョルさんなので、人々がパク・ジョンチョルさんの姿として認識できるのは、遺影となった写真だけ。

テレビは完全に沈黙し、情報が圧倒的に少ない中、せめてこのお父さんの悲痛な様子が報じられたのは、まだ不幸中の幸いでした。

イ・ハニョルさんの写真を撮った元ロイター記者、チョン・テウォンさんも、30年後の聯合通信とのインタビューの中で、「ジョンチョルも殴られて、拷問されて死んだのに、その時の写真がないでしょう?ハニョルの死は写真があったおかげで人々に伝わり、影響を与えることができた。導火線になった。私は海外特派員だったから近くで撮ることができたに過ぎない」と当時を振り返っていますが、一枚の写真の雄弁さを思うと、報道の重要性を改めて思います。

 

そして。

映画の大事なメタファー、運動靴。

 

 

 

友だちと合コンに行くために繁華街で待ち合わせていたヨニは、おりしも始まったデモを制圧すべく催涙弾を打ちながら襲い掛かってくる通称「白骨団」と呼ばれる私服警察に追われ、危ないところをイ・ハニョルさんに助けられます。

逃げ場を失った二人をかくまってくれたのは、町の靴屋さん。
ちなみに、当時を経験している方々に聞くと、学生を連行しようとする白骨団から商店の人たちが守ってくれるというのは、当時本当によくあることだったそうです。
学生たちをかくまってくれたり、親戚だと偽って引き離してくれたり。食堂のアジュモニたちがなにかをタダで食べさせてくれたりは、それ以上にあることだったそう。
大学生を大事にする文化があり、加えて学生たちが間違ったことをしていないのも分かっているので、心配と応援の気持ちの表れなのでしょう。

そういえば、2016年10月から始まった光化門のロウソク集会でも、集会を終えた人たちが光化門の食堂でご飯を食べていたところ、同じ客だったおじさんがそこにいた全員分の食費を黙って払って行ってくれた、などという話はよく耳にしました。

ともあれ。

ヨニと一緒に逃げているうちに右の靴をなくしてしまったイ・ハニョルさん。
この時はお金を持っていなかったイ・ハニョルさんに代わり、ヨニがお金を支払ってプレゼントします。

そして今度は、叔父が警察に連行されたことに母と抗議に訪れたヨニが、車に押し込められてどこか知らない田舎の道に捨てられ。
ヨニは左の靴をなくしてしまい、雨の中イ・ハニョル先輩に助けを求めます。

こうして二人が送りあった、同じ運動靴。

映画の後半、イ・ハニョルさんは催涙弾に撃たれて倒れる中、脱げてしまった右足の靴に手を伸ばしながら、抱えられていきます。
学生を捕まえようとなだれ込んでくる警察に踏みつけにされ、どこかに消える運動靴。
映画は直後、同じ運動靴で全力疾走するヨニの足元をクローズアップしながら、エンディングに向かいます。

ここはやはり、運動靴が重要なメタファーになっていますよね。
ハニョル先輩が右の靴をなくしたら、ヨニが靴をあげ、ヨニが左の靴をなくしたら、今度はハニョル先輩が靴をあげて歩けるようにし。
最後、また靴をなくして歩けなくなってしまった先輩の代わりに、全力疾走するヨニ。

・・・・・・書いていても悲しいです。

 

実はイ・ハニョルさん。
実際の遺品も、片方の靴しか残っていません。

 

 

 

新村(シンチョン)にある「イ・ハニョル記念会」には、倒れた当時イ・ハニョルさんが身に着けていた実際のTシャツ、ジーンズ、そして片方だけの靴などが展示されています。

仲間たちに抱きかかえられて病院に運ばれる間、脱げてしまった靴。

その脱げた靴を拾い、病院に届けたのは、1学年先輩のイ・ジョンヒさんでした。

 

 

 

イ・ジョンヒさんは、当時のことをこう振り返っています。


「デモ隊の先頭のほうにいて催涙弾から逃げていたのですが、突然隣りから『どいて、どいて!』と緊迫した声が聞こえてきて、学生たちが何人か通り過ぎていきました。ケガ人を抱きかかえていたのですが、その人の靴が片方落ちたんです。デモでは大小のケガは付き物だったので、目を覚まさないとは思ってもみませんでした。‘面倒を見てあげなければ’との思いで、病院まで持って行きました」

セブランス病院の救急室でイさんが目撃したのは、警察の鎮圧の激しさを物語るかのように引きも切らずになだれ込んでくる負傷者の数だった。救急室は文字通り‘修羅場’だった。

イさんは負傷者の傍で体に着いた催涙弾の粉を洗い流す作業を引き受けた。そうしながら運動靴を渡す保護者を探していた。

イさんは「そうやって何時間か催涙弾の粉を洗い流していたのですが、急に救急室の雰囲気が緊迫したんです」とし、「誰かがハニョルのご両親を呼んだんです」と振り返った。

病院に到着したイ・ハニョル烈士の母ペ・ウンシム女史は、半ば抜け殻のような状態で「アイゴ、私のハニ、私のハニ」と叫びながらずっと胸を叩いていたとイさんは伝えた。

イさんはぺ女史を今なお‘オンマ’と呼んでいた。
「救急室まで付いてきていた女子学生が私だけだったので、‘オンマ’を支えなければという思いで医師にも会い、次の日の明け方まで一緒に過ごしました。
‘ハニョルが目を覚ましたら、靴を履かせてあげてください’と言ったのに・・・・・・」と目を赤くした。(出典はコチラ)

 

これが、イ・ジョンヒさんが届けたイ・ハニョルさんの運動靴です。

 

(写真©キム・ギョム美術品研究所)

 

 

実はこの靴は、2015年に復元されたものです。

靴底のソールの部分が経年劣化でボロボロになってしまっていたのを、キム・ギョム美術品研究所の力を借りて87年当時の状態に直したのです。

この運動靴は、「サムファゴム/삼화고무」という会社の「タイガー/타아거」という銘柄の商品で、当時若者に人気だったそうです。

なくなってしまったもう片方の左側の運動靴については、キム・ユンソクさんがウヒョンさんに聞いた話として、インタビューでこう明かしていました。

「ウヒョンさんは故イ・ハニョル烈士と一緒に延世大前でデモをしていた方です。ウヒョンさんが言うには、集会が終わった後は落とし物を集め、それを保管しておく所があったそうなんです。当時そこにタイガーの運動靴が片方だけ届けられたのですが、最後までこれを取りに来る人がいなかったそうです。それが、故イ・ハニョル烈士の物だったということなんです。
ウヒョンさんはそういう細かいことも、全部覚えていました。だからこの映画には、ベストを尽くさざるを得なかったでしょう」
(出典はコチラ

 

片方だけの運動靴。
これがイ・ハニョルさんのお母様のもとに届けられることはありませんでした。
きっと「思えば、あれが」ということだったのでしょうね。
靴をなくし、最後まで家に帰れなかったイ・ハニョルさんを思うと。
悲しいです。

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最後に、tbs(ソウル交通情報)の制作した「【都市の品格】運動靴をなくして30年 イ・ハニョル烈士(6.10民主抗争)」という動画をご紹介します。

動画はyou tubeのtbs公式アカウントより。

 



1987年6月9日延世大学校
「運動靴の持ち主、いませんか?」
「白骨団に追われるうちに失くしたようですが、この運動靴の持ち主、いませんか?」

その時運動靴の主は救急室に運ばれていた
「後頭部が痛いです。全身が麻痺していくみたい・・・」

運動靴をなくして1日目
「昨日のデモでの負傷で延世大生重体
医師‘頭部に遺失物’ 催涙弾を受けた模様」
1987年6月19日東亜日報

俳優パク・チョルミン(中学校の同級生)
「模範生でおとなしい子だったのに、
なんでこんな目にと胸が熱くなりました。
その日以来、毎日街に飛び出しました」

1987年4月13日
大統領選挙間接選挙制、護憲措置

1987年6月10日
盧泰愚、民主正義党の大統領候補に選出
すると「護憲撤廃!独裁打倒!」

「民主主義を渇望する全ての国民の名において
大統領候補指名が無効であると宣言する!」
民主争取国民運動本部

警察の催涙弾とこん棒にも退かない理由
1987年1月ソウル大生パク・ジョンチョル君水拷問致死事件
「学生が水拷問で命を落とし、
催涙弾に倒れました。
学生たちが正しいと思いました」
釜山のある市民

運動靴をなくして3日目
「‘ハニョルを救いだせ!’
学生たちは左胸にステッカーを貼り」
京郷・中央日報1987年6月11日

明洞聖堂に逃げ込んだ学生たちに警察が催涙弾を乱射すると
「この地に民主主義を打ち立てようと聖堂まできたのに、
どうして彼らを追い出せようか。
学生を捕まえたければ、私を踏んで行け!」
キム・スファン枢機卿

聖堂の塀越しに医薬品、肌着、靴下を届けた南大門市場の商人たちと
デモ隊を応援する手紙と寄付金を届けたサラリーマンたち

そして

「会いたいオンニ(お姉さん)、オッパ(お兄さん)たち!
成し遂げようとしたことが叶った日に、笑顔で会いたいです」
塀越しに弁当とメモを渡したケソン女子高の生徒たち

運動靴をなくして18日目
「イ君、引き続き危篤状態」
1987年6月26日東亜日報

目を開けられず、吐き気を催す催涙弾の中
「大統領を我々の手で!」
6月26日 
全国37市・郡・町130万市民の行進
「国民平和大行進」

3日後の政府発表
「大統領直接選挙制を受け入れます」
6.29宣言

しかし7月5日
日曜明け方に伝えられた悲報
「死闘を繰り広げること27日目にイ君とうとう息絶え・・・」

次の学期受講申請書も出せず
母が編んでくれたチョッキを
二度と着ることができなくなった彼が残した最後の言葉
「明日市庁に行かなきゃいけないのに・・・」

遺影の写真となって31日ぶりに到着したその場所では
100万人の市民が彼の名を叫んだ
イ・ハニョル(李韓烈)
民主主義を夢見た美しい青年
(1966年8月29日~1987年7月5日)

デモの途中脱げた彼の左足の運動靴は
主を探せないままゴミ捨て場に捨てられ
病院に担ぎ込まれる時に脱げた右足の運動靴は
遺物番号‘A007140007’として遺された

「あなたのおかげで、光化門でロウソクを掲げることができました」
2017年 とあるネットユーザー


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