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2 2016年2月
みなさま、こんにちは。
-10℃のソウルから、その差18℃の日本に戻ってまいりました。
大寒波は過ぎたとはいえ、やはりこの時期のソウルは寒いです。
ソウルより寒いかもしれない北海道の方々の大変さを思わず想像してしまいました。(笑)
さて、今日は『六龍が飛ぶ』第35話。
緊迫の展開、さっそくまとめてみます。
視聴率が軒並み上がってきましたね。
やはり大事件を前に、普段見てない人までもテレビの前に。(笑)
35話の視聴率は16.3%。
これまでで最高です。
大体13%~14%を前後していたのですが、これからぐっと上がってくるかもしれません。
なにしろ、緊迫の展開となった35話ラスト。
どうにか36話を見る前にまとめておきたいです。(笑)
まずは、チョン・ドジョンの流刑先にやってきたイ・バンジ。
イ・バンジはチョン・モンジュがイ・ソンゲの暗殺を企てたことなどを明かし、望むなら今すぐここから逃がすと話します。
チョン・ドジョンは、単に玉座につきたいのなら、すぐ王を殺せばいいだけの話。なのにそうしなかったのは、名分を守ることも大きな力になるからだったからだと語り。
もはや天命に任せるしかない、後はバンウォンがどれだけ早くイ・ソンゲを都に戻せるかにかかっているとの言葉に、イ・バンジもうなだれます。
折りしもチョン・ドジョンには再び王命が下り、急遽都に戻されることに。
チョン・ドジョンの傍を守ってともに都に向かいながら、イ・バンジは焦燥を募らせます。
一方バンウォンは重傷の父とともに追っ手から逃れるため、とある儒学生の家に身分を偽りしばし身を寄せようとするのですが、ほどなくやってきた追っ手の会話で追われているのがイ・ソンゲだと知った儒学生に刀を突きつけられてしまいます。
尊敬するイ・セクを流刑に処したチョン・ドジョン一派のイ・ソンゲを生かしておけない、自分はチョン・モンジュに従う人間だといわれたバンウォンは、イ・セクやチョン・モンジュをそこまで信じられるなら、高麗を何度も危機から救った英雄である父を殺せるならば殺せばいいと迫ります。そのかわり、お前の一族チョ氏を3代先まで皆殺しにすると。
その上で、土地改革を阻止し、不正を働いた官僚たちを庇い、仏教改革にも反対するような人間のなにを尊敬しているのかと反問するバンウォン。父が作ろうとしているのは、お前の言う武臣国家などではなく儒学者の国。だからこそ権力者らの反対をあえて押し切って土地調査事業を行い、寺刹を改革しようとしているのだと憤ります。
チョ氏と名乗った男は、色んな説が飛び交っているので本当のことを聞いてみたくて聞いたのだが、すぐ答えてくれたと泰然と応じ。ここからバンウォンたちを逃がすつもりであることを伝えます。
こうしてチョ氏の機転により、葬儀のふりをして無事出てこられたバンウォンとイ・ソンゲ。折りしも二人を探していたムヒュルやイ・ジランと出会え、イ・ソンゲを安全に都に戻します。
礼をいい、名前を聞くバンウォンに「趙末生(チョ・マルセン)」と名乗る男。
ここで韓国の視聴者は一斉に「出たー!」となったわけですが。(笑)
チョン・モンジュの弟子、趙末生。
朝鮮王朝初期の文臣で、イ・バンウォン、のちの太宗に寵愛されたことで知られた歴史上の人物です。
趙末生が登場したということは、すなわちもう時代が変わるということを意味しているわけですが。
イ・ソンゲが都に戻ったと聞き、狼狽する王とチョン・モンジュ。
ユンランことチョク・サグァンも暗殺に失敗したため王は怯えていますが、チョン・モンジュは容態次第で次の打つ手が変わるので、事情を探るよう命じるためチョク・サグァンと共に外出します。
チョク・サグァンを見かけたムヒュルは、誰も殺さずおとりの籠を真っ二つにしたあの刺客だと見抜き、尾行。尾行に気づいたチョク・サグァンに単刀直入に尋ねます。あなたは昨日あいまみえた人であり、チョク・サグァンであろうと。
なぜイ・ソンゲ将軍を殺そうとするのかと尋ねるムヒュル。
落馬の隙を突こうとするだなんて、あまりに卑怯ではないかとなじりますが、なにが正しいか、なにが間違っているかなど話し合っても意味がないとチョク・サグァンは答えます。
チョク・サグァンはここでムヒュルを切るべきではと葛藤しますが、切ることができません。自分と戦えば死ぬのはそちらだと断言するチョク・サグァン。
ところがムヒュルは話を終わらせず、あなたは本当は殺人などしたくないはずだ、みんな命がけでかかってくるのに、切らなかったのはそういうことではないのか、なぜそんなに似合わないことをしているのかとなおも尋ね。
かくしてチョク・サグァンは、本当は殺人などしたくないのだという本音を期せずして口にします。だから二度と会わないようにしようと。
ムヒュル、チョク・サグァンとのやり取りで深い悩みに落ちてしまうんですよね。
今まで自分は正しいことのために命を張って頑張ってきたのに、急に「なにが正しいかなど話し合っても意味がない」といわれ、なおかつ敵であるはずのチョク・サグァンがどう見てもいい人にしか思えず。
ムヒュルは戻ると、その気持ちを素直にプニにぶつけます。
「これから戦う相手が、必ずしも悪い奴ら、悪人とは限らないように思えてきちゃって・・・・・・。これは思い違いでしょうか?」
対するプニは、母に言われた言葉を思い出しながら、「私たちがこれから戦う相手は、悪人ではないのみならず、自分の大切な人かもしれない。その覚悟がないなら、こういうことにかかわってはならないととある人に言われた」と呟き。
ではプニはそんな覚悟が出来ているのかと尋ねられ、「分からないけど、覚悟しなければ。もし逃げないのなら」と答えます。
そして、ムヒュルは刀で闘うので、なおさらそういう覚悟が必要だろうと付け足すプニ。でなければムヒュルは死と直結してしまうと。私たち、死なずにいようと伝えるプニです。
ここ、すごく大事な台詞なんですが、このところプニが何の台詞を喋っても表情が一本調子なので、いまいち説得力が。
と思っているのは私だけでしょうか。(笑)
ともあれ。
ムヒュルは師匠にチョク・サグァンの弱点を尋ねに行きます。
ところがやはり師匠は、タンセに答えたのと同じように「コクサン剣法に弱点はない」ときっぱり。なので、対面したら逃げろとこともなげに言います。
ところが、自分は逃げられそうもないと深刻な様子のムヒュル。
師匠ホン・デホンは、弱点とは剣法にだけあるのではなく、人にあるのだと重要な示唆を残し。
かたや、流刑地から大急ぎで都に戻されているチョン・ドジョンとチョ・ジュン、ナム・ウン。ヨニは彼らの処刑が迫っている証拠だと緊迫した様子で伝え。
バンウォンの葛藤が始まります。
本当はどうすべきか分かっているバンウォン。
でも、それを言葉にすることが出来ません。
一人苦しむバンウォンの前に現れた亡霊。
『なぜ苦しんでいるフリをする?』
「フリ?」
『では本当に苦しんでいるとでも言うつもりか?』
「楽しんでいるように見えるとでも?」
『ポウン(チョン・モンジュ)の命は、もはや高麗の命も同じ。それを終わらすことの出来る喜びに胸が躍っているのではないか?』
「バカを言うな」
『高麗を終わらせる者が、朝鮮を開く者となるのだ。そしてお前は、この国の大儒学者であり士大夫であるポウンを殺した者になる。どうだ。怖いか? それとも胸が躍るか? 自分を受け入れろ。お前には気がかりなことがあるようだな。ポウンを殺した後に自分になにが降りかかるか。‘もしや自分の立地が狭まるのでは?’、‘このことが後継者の足かせになったらどうしよう’、そしてもうひとつ、このことで世間に背を向けられ、孤独になるのではと恐れて迷っているのではないのか?』
ホン・インバンの亡霊は、すなわちバンウォンの自問自答ですよね。
大声を上げて振り払おうとしたところにプニがどうかしたのかとやってきて。
深刻な様子で、今晩どんなことが起きようとも変わらず自分の味方だと答える自信がないなら、ここで降りろといわれたプニは、チョン・ドジョンとイ・ソンゲにとってチョン・モンジュがどれほど大事な人かわかっているからこそ苦しんでいるのはとても理解しているが、自分はそれ以上に大切な人と戦わなければならないので、歯を食いしばっている。だからバンウォンの味方だと答えます。
チョン・モンジュを殺さなければならないと、誰よりも先にプニに打ち明けるバンウォン。
プニは、実は自分が今バンウォンのところに来たのは、そのチョン・モンジュがイ・ソンゲの見舞いと称して訪ねて来たからだと告げます。
チョク・サグァンを従え、じきじきに容態を確かめにきたチョン・モンジュの大胆不敵さと断固たる態度に、衝撃を隠せない一同。
表で待たされるチョク・サグァンにムヒュルは再び近づき。
自分は逃げないと告げるムヒュルです。
屋敷の中では、チョン・モンジュと相対するイ・ジラン。
チョン・モンジュは見舞いに来たのだから直接合わせてくれと圧迫を加えますが、イ・ジランはチョン・モンジュをむしろ説得します。
かつては自分もイ・ソンゲとは血で血を洗う敵対関係にあったのだとイ・ジラン。
捕らえられ、死を覚悟した自分に、イ・ソンゲは仲間になるよう粘り強く説得し、自分と自分の領地の人間をみな引き取ってくれたのだと。以来、イ・ソンゲとは義兄弟の契りを交わすことになった。イ・ソンゲはそういう人間だと。
なので、自分を殺そうとしたチョン・モンジュのことも、心を入れ替え、共に歩むことに決意すれば、イ・ソンゲは必ず受け入れてくれるだろうとイ・ジラン。
真心のこもった言葉と、実際にそうであろうイ・ソンゲを思い、チョン・モンジュは苦渋の表情を見せます。
一方バンウォンは、折りしも意識を取り戻した父に、この機にチョン・モンジュを殺そうと告げますが。
病床にありながら、目を血走らせて激しい怒りを見せる父。
胸倉をつかまれ、絶対に許さないといわれ、バンウォンはそれ以上何も言うことが出来ません。
結局チョン・モンジュと対面することにした父イ・ソンゲ。
イ・ソンゲはチョン・モンジュに、なぜこんなことまでするのかと切なく問いかけ、チョン・モンジュは、高麗とイ・ソンゲとのどちらかを選ばなければいけないのなら、自分はつらくてもこうするしかないと答えます。
王が民を苦しめてきた間に高麗を守り続けた自負を語るイ・ソンゲ。
国と民を守るためには、自分が国を立て直すしかないと決意するに至った思いを述べます。
そんなイ・ソンゲに、だからこれからも、単なる将軍として今まで通り民を守って欲しいとチョン・モンジュ。イ・ソンゲは新しい国を作ったほうが、もっと人々を守ることが出来ると反論しますが、チョン・モンジュはそれを合理化だと切り捨て、「イ・インギョムでさえ国を変えようとはしなかった」とまで言ってのけます。
その言葉に、彼らには構想も抱負もないのに、なぜ同列に語るのかと諭しながら、イ・ソンゲは自分がチョン・ドジョンとチョン・モンジュをこそ構想であり抱負だと思っていると切々と述べます。
決して王になりたくてやっているわけではないのは分かっているだろうとイ・ソンゲ。政治はチョン・モンジュがやればいいと手を握りながら訴えます。自分の夢は、チョン・ドジョンとチョン・モンジュの夢を叶え、守ることなのだと。
お願いだからもう一度思い直して欲しいと心から訴えるイ・ソンゲですが、そこで吐血してしまい。
やはりイ・ソンゲが重傷であると確信したチョン・モンジュは決意を固め、王の許しをもって明日の朝一番にチョン・ドジョンを処刑するよう命じに行きます。
まぁここまでくると、チョン・モンジュが守りたいものが一体なんなのか分かりません、視聴者としては。
これがチョン・モンジュの限界ということでしょうか。
国のために民があるのではなく、民のために国があるという転換が、儒学者だからこそ出来ないのか。
などと思っている間にも、このままではチョン・ドジョンが殺されてしまうのに諦めたのかと焦ってやってくるイ・バンジ。
バンウォンは、とうとうチョン・モンジュを殺さなければならないと言います。
かくして、チョン・モンジュの元に向かうバンウォンとヨンギュ、イ・バンジらで、ラスト。
緊迫しています。
嵐の前の静けさと言うべきか。
このあととうとう、あの歴史的な大事件が起きてしまうんですよね。
ここまでの決意をしなければならなかったバンウォンに、視聴者として同情しきりなんですが。
タンセの出番がぐっと減っているのは残念ながら、バンウォンの苦悩がますます深まる様子や、ムヒュルが見せている新たな境地など、このところも見所一杯の『六龍が飛ぶ』です。
しかし気になるのは、チョク・サグァン。
今のところ誰の目にも無敵なのですが、どんな結末が待っているのやら・・・・・・。
非常に気になる36話です。
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チョ・ヨンピル “もう そうできたら” を読む
4 Responses for "『六龍が飛ぶ』 第35話"
こんにちは。
すごかったです、35話と36話。
36話のことはまたあとにして・・・。
このドラマには「名分」という言葉が多く出てきますが、35話は、チョン・モンジュとイ・バンウォンの名分を十分に伝えた回でしたね。このドラマは回軍のときはけっこうあっさり進めたのに、ここでは相当時間をかけましたね。どちらが正しいとも言わず、それぞれの名分と感情を丁寧に積み上げていき、最終的に二人が「そうするしかなかった」ことを納得させたと思います。
チョン・モンジュはどうしてそこまで高麗にこだわるのか、実際のところ私もよくわからなかったです。それが儒者としての生き方なのか限界なのか・・・。しかし、あっぱれな人物であることは間違いないですね。この俳優さんの演技もすばらしかったですー。
大人全員が捕まったり負傷したりで、イ・バンウォン中心に若者たちが行動を起こさざるを得なかったわけですが、若者たちは「チョン・モンジュを殺す」ことに衝撃を受けたけど、そうしないとここで終わりだ、とみんな心の中では思っていましたよね・・・。でも、中心人物のイ・ソンゲやチョン・ドジョンは違うわけで(じゃどうしたらよかったのよ、と私は思っちゃいました)、今後、あの若者衆(ええ、もちろんタンセも)がどう考えていき行動していくのか、それをあと14話でどう見せるのかにとても興味があります。
あとはチョ・マルセン登場~。けっこうとぼけたキャラでしたね。ハリュンもですけど、バンウォンの周りにはこういう人が集まってくるんでしょうか。これからの悲劇がなかったら楽しそうなのに。
eripodさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
36話はまたアップするとして。(笑)
35話と36話は、すごかったですよね。
仰るとおり、その後に起こる事件を説得力をもって描くために、丁寧に互いの「そうするしかない」事情を見せてくれたと思います。
おかげで、本当に歴史的にそうだったかのような感覚になりました。
だからこそ、重かったです・・・。
国家は腐りきっているわけで。もう散々民を殺してきていて。国に未来がないのは明らかなので。
この国はもう駄目だというその怒りを基盤にすれば、バンウォンたちの決断は至極納得がいくことなのですが。
決して悪人ではない味方同士だった人間が、互いを殺さないといけない状況になるということは、やはり重たいです。
でも本当に丁寧に描いていて、この脚本の隙のなさはすごいと思います。
趙末生、コミカルな雰囲気で登場しましたね。
重たいものを背負ってるバンウォンの周りには、なぜかコミカルなキャラクターが集まってます、確かに。
これも計算されたバランスでしょうか?(笑)
私もまさかここまでハマると思っていませんでしたが、もう残すところ14話になってしまいました。
ハッピーエンドがありえないので、見終えたあと寂しさに加えてさらに悲しくなりそうです。
ありがとうございました。(^_^)
白香夏さま、こんにちは。
忙しすぎて、ここに来て六龍が周回遅れの危機に瀕していますが、先ほど、やっと35話までたどり着いたしまうまです。
とりあえず、白装束チョク・サグァンの輿真っ二つ斬りには、思わず「五エ門
か!」でした。
あの剣は、きっと斬鉄剣なんですね。
緊迫の一途をひた走る中、くだらない書き出しですみません。
36話予告では、次が「最期の瞬間」に違いないチョン・モンジュ。泣。
私は、ここで描かれる彼の人物像に、「本当に凄い人だわ……」と心底感服しているんですよね。
末期の高麗に対する自分の努力が「焼け石に水」になるだろう事も、チョン・ドジョンやイ・ソンゲが目指す世の中がどんな価値を持つのかという事も、彼は誰よりも分かっていて。
でも、高麗に「自分が」トドメを刺すことは出来ないという思い。
外から壊して新しく造るのではなく、「内からの改革」を目指すしかないという選択。
同じ儒者でもイ・セクとは違い、彼は今までチョン・ドジョンと共に、民衆や国の有り様に胸を痛め続け、心底「この現実を変えよう」としてきた。
そう描写されてきたからこそ、「なんだかんだ言って、結局は自分のために既存制度の存続を求める綿々」とは、次元が違う人物だなあと感じられてなりません。
チョン・モンジュに儒者としての限界があるように、バンウォンの考え方にも、チョン・ドジョンの思想にも、「限界」があると思うんですよね。
そう思うのは、前作を見ているがゆえもありますが。
そして私たちにも、今という時代や価値観に根差した「限界」があるんでしょうね。
やっぱり、未来人たちに気の毒がられたり、ダメ出しされたりしちゃうんでしょうか。
それにしても、何故「チョン・モンジュを殺すしかない」のか。
本当に「殺すしかない」のか。
ここはとても考え込んでしまいました。
「闇夜にさらって、危機打開まで監禁しておくとかダメ?」「政治的には大逆風でも、王やチョン・モンジュも恐れていたイ・ソンゲ陣営の圧倒的武力を、チョン・ドジョン救出の切り札にできないの?」等々……。
「バンウォンの転換点」を、この脚本家たちは一体どんな風に描くんだろうと気になってきましたが、このチョン・モンジュ殺しを「一線を越える、その瞬間」に据えたのですね。
恐ろしいほど説得力のある設定に、脱帽しました。
私の場合、この回のバンウォンに対しては、「同情よりも厳しい目」でした。
「チョン・モンジュは、自分たちがやりたい『理想の政治』を遮る邪魔者」的な思いが、「殺すしかない」の根っこにあるのではという印象が拭えないんですよね。
「最初から殺す以外答えはなかった」的なモノローグもありましたし……。
確かにイ・ソンゲ+チョン・ドジョン陣営最大の危機だった。
けれど、危機を理由に「殺して排除」を正当化してはいけない。
これは、より上に立つ人にほど課される制約、義務じゃないだろうか。
それでも危機打開のために「排除」を選ぶなら、「上」から身を引かなくちゃいけないんじゃないだろうか。
そう考えてしまうので、バンウォンがチョン・モンジュ殺害の是非よりも、その後の自分について苦悩している姿には、とても複雑な気持ちでした。
チョン・モンジュの後は、「殺すしかない」という同じ理屈を、とうとうチョン・ドジョンに向けていくのでしょうか。
タンセやプニたちも巻き込まれていくんですよね。
はぁぁぁ……。
夢中で見ているのに、楽しみなわけではないなんて、罪なドラマですよね。
しまうまさま
こんにちは。
コメントどうもありがとうございます。(*^_^*)
罪なドラマですよね、間違いなく。
私は目下36話まで観終えていますが、「25話で終わればよかった」と回を増すごとに思っています。(笑)
この脚本は本当に素晴らしくキャラ設定が上手くできていて、バンウォンは不正義を正す方法として「殺すしかない」、「せめて悪党を殺すくらいしか方法がない」と追い詰められている少年としてはじめに登場しますよね。
都にあふれる死体、貧民窟、「正義」の側のはずの父の悪(イ・インギョム)へのかしずき。それらを前にした怒りと無力感。
学ぶことで世を変えようとするも、自らも孟子を学んだことでキル・テミの息子らに死の恐怖を味わわされ。
で、殺すという手段による「社会悪の排除」に手を初めて染めた少年時代。
そのバンウォンが、チョン・ドジョンによってそこに「虫」という名を与えられたことで自らの思考の枠組みに問題があることに気づき、チョン・ドジョンを信頼し、共に世の中を変える手足となりたいからこそ、足りないながらも、一歩前進二歩後退状態でも、これまで学んできたと思うんです。
それを思うと私としては、チョン・モンジュがチョン・ドジョンを落としいれ、チョ・ジュンやナム・ウンなど、国の改革には絶対に必要な、いわば財産である人々までも排除し、イ・ソンゲ負傷の機を狙ってイ・ソンゲ一派の全滅を図ったことは、実に残念に思うんですよね。
私には、チョン・モンジュがもともと改革(革命)に邪魔だから殺したという「本音」より、できれば殺したくなかったという気持ちのほうが感じられました、バンウォンの自問自答から。自分の決断が「虫」に基づいているのではないかと葛藤するのは、この間チョン・ドジョンのもとで曲がりなりにも学んできているバンウォンにとっては至極当然の流れにも思えます。確信はありつつ、何度もそれでいいのかとためらい、問うた結果に思えました。
チョン・モンジュが自分を信じきっているチョン・ドジョンの裏をかき、ワンヨ(コンヤン王)と接触し始めた時点から、チョン・モンジュ自身にも「虫」が作動していたのは間違いないように思います。
勿論、殺す以外の方法を編み出せれば、一番よかったですよね。
例えわが父が暗殺されそうになっても、師匠が処刑寸前まで追い込められても、殺さない選択を考えられるバンウォンであればよかったですが、そうはなりませんでしたよね・・・。
ただ、37話以降は、バンウォンが「虫がやらせたわけではない」とことさら言いたいために、「殺したのは正当だった」と過度に発し始める可能性はありますよね。言葉は発すれば発するほどに、本当になっていく側面があるので。バンウォンが「開き直り」のように振舞っていき、自らそう信じるようになる可能性も否定できないと思います。
ただ、現段階では「あいつはもともとそんな奴だった」とは、まだ私には思えていません。もう少し複雑な、入り組んだ成長をバンウォンは経てきていて、現象面を取り上げれば同じに見えても、同じではないという感触を現段階では持っています。
私が35話で思う違和感は、実はチョン・ドジョンです。
チョン・ドジョンは自分が都に押送されている段階で、政治の人間ですから公開処刑が迫っていることくらいは分かっていた筈ですし、実際に分かっていました。なのに、あまりにも指示がなさすぎじゃないですか?
「自分がもしこうなりそうになったらこうしてくれ」とか、「自分は悔しいけどポウンの兄貴に殺されるなら本望だ。革命は終わりだ」とか言って、助けに来ていたタンセに殴られるとか、そういうことくらいあって然るべき危機状況でしたよね。でも彼が言ったのは「バンウォンがイ・ソンゲ将軍を都に連れ戻すのが間に合うかどうかにかかっている」、だけなんですよね。
これってバンウォン任せじゃないですか、完全に。
イ・ソンゲ任せとも言えますが。
イ・ソンゲを殺そうとしたチョン・モンジュをイ・ソンゲが許すことはあっても(キャラ設定的に)、チョン・モンジュをイ・ソンゲが止めることが出来ないことはイ・ソンゲをチョン・モンジュが殺そうとした時点で分かっているわけで、となると自分が生き残る道、革命の可能性が潰されない道は、チョン・モンジュの排除=死しかないのは分かっていたんだろうに。
ずるいようにも感じます。
もともとバンウォンをそこまで大事に思っていないから「あいつなら最後は殺すだろう」と内心思っていて、黙ってやらせておいて、その結果については「お前は駄目なやつだ」と言ってるみたいな、なんだかずるい感じを受けました。ずるいというより、本当にバンウォンのことなんてなんとも思ってない人なんだな、という感じが、チョン・ドジョンの何も語らなさで逆にプンプン匂ってしまいました。
だからまた、この脚本家の方々がすごいなと思うのですが、このあとバンウォンが今度はチョン・ドジョンと悲劇的にこじれるのも、すごく腑に落ちてしまいます。
このドラマって、すごく好きな、共感できるキャラクターがいても、その人が100%じゃない、100%の感情移入が出来ないってところが、すごくミソだなと感じてます。
私はチョン・ドジョンにとても共感できるのですが、一方でチョン・ドジョンは「いらないもの」を冷酷なまでに切り落とすところがあって、そこが辛く。
タンセは大好きですが、時に厭世的すぎるところは好きになれず。
プニは今のところ一番「好きだけどここが・・・」がないのですが、いかんせん出番が少なく。(笑)
しかし。どうしましょうか。毎回毎回熱中してみてるのに。
見終わっていい気分とか、絶対にならなそうじゃないですか、このドラマ。
大丈夫なのかって気がしてきています。ショックを受ける結末で終わりそうで、見終えるのがちょっと怖いです。(笑)
ありがとうございました。(^_^)
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